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「いらっしゃい」
新たな来客らしい。ドアの方を振り向くと、女性が二人立っていた。
「ストレートティーのホット二つで」
「少々お待ちを」
茶髪の女性が、連れらしい黒髪の女性の分も合わせて注文し、一直線にテーブル席へ向かった。丁度私たちの右後ろの席だ。
マスターがすぐにお冷を二人に出した。「ありがとうございます」と二人が口を揃えて礼を述べると、マスターは軽く会釈して厨房に引っ込み、お湯を沸かし始めた。
なんとなく店の壁に掛かっている時計に目をやると、時刻は午後五時半だった。仕事を終え、仲の良い同僚二人でティータイムに興じるのだろうと勝手に想像し、アールグレイをちびちびと口に運び続ける。
目の前で優雅に紅茶を淹れるマスターを見て、その手際に感心していると、彼女らの会話が耳に入ってきた。
想像通り、二人は他愛のない話に花を咲かせているようである。
「そうだ優香。この前教えたやつ、どうだった? 私、使ってていい感じだったからさ」
「あれ最高。沙織に教えてもらってよかったよ」
会話から察するに、黒髪の女性の名前は優香で、茶髪の女性の名前は沙織と言うらしい。
ちらりと肩越しに彼女らを見ると、優香さんがリップクリームを塗っていた。
恐らく沙織さんに教えてもらったものだろう。「こんな感じ」なんて言いながら、彼女にアピールするように塗っている。それを見て沙織さんが微笑んでいた。
優香さんも微笑み返すと、お冷を口に運んだ。
「千景、じろじろ見すぎ」
微笑ましい光景に夢中になっていると、湊が珍しく私に注意した。慌てて湊の方へ向き直る。
「ごめんごめん。でもいいよね、あの二人。仲が良さそうで」
「見た目は正反対だけどな」
湊はもはやガムシロップそのものと言っても過言ではないアイスティーを飲みながら言った。丁度紅茶がなくなったようで、空気を吸い込んだストローが音を立て、溶け残った氷がグラスの底を半周した。
「なんでそういうことを平然と言い放てるかな、湊は」
残り少なくなったアールグレイを一気に喉に流し込んでからそうぼやく。湊はグラスをカラカラと揺らし、マスターに「ごちそうさま」と告げてから、また片肘をついた。
「性格なんだから仕方ない」
「ちょっとは治す努力をしなさい」
湊の二の腕を強めにつねってやると、湊は涙目になって、
「わ、悪かったって! 離してくれ」
と命乞いをした。
「ふん」とそっぽを向いてから、少し勢いをつけて彼の二の腕を離す。苦痛から解放された湊は患部をさすりながら、恨み言を呟いた。
「お前こそ、そうやってすぐ力業に出る癖を治せよ……」
私は溜息をついて、カップをマスターに返して「ごちそうさまでした」と告げた。
「ちょっとお手洗い、行ってくるわね」
優香さんの声だ。再び振り返ると、丁度椅子を引いているところだった。そうして歩き出すと、沙織さんが突然立ち上がった。
「ポーチ忘れてるよ。――あ!」
勢いよくテーブルの上のポーチを掴んだものだから、口が開いていることにまで考えが及ばなかったらしい。大小様々な化粧品が、ジャラジャラと床の上に散らばった。
「大丈夫ですか?」
私と湊が席を立ってそう言うと、沙織さんは助けなどいらないとでも言うように手を軽く上げ、「触らないで」とキッパリ断った。あまりに強い語気に、私はたじろいだ。
「ごめんね、優香」
「いいのいいの。私がチャックを閉じなかったのが悪いし」
二人がかがんで拾い集めるのを眺めているだけ、という状況はどうにももどかしかったが、当人から拒否されたのだから仕方がない。
諦めて、再度席に着く。隣の男はというと、相変わらずマイペースで、依然としてマスターの姿を目に焼き付けるようにして眺めていた。
しばらくして散らばったものを拾い尽くし、優香さんは改めてお手洗いへ向かった。今度はポーチをしっかり手にしている。
マスターが注文された紅茶を出したのと同時に、優香さんが帰ってきた。化粧直しでもしたのだろうか。少し顔が綺麗になっていた。
「千景、もう帰ろうぜ。お互い飲み終わったことだし」
「そうだね」
肯定し、再び時計に目をやる。もう午後六時を迎えようとしていた。
「やっば! 六時半から観たい番組があったんだよね」
急いで荷物を纏め、
「美味しかったです。また来ますね」
厨房で半分眠りかけていたマスターに声を掛けた。彼はハッと目を開き、しばらくぱちくりさせた後、湊の方を向いて口元に笑みをほころばせた。
「ありがとう。また来ておくれ。今度はもっと甘くて美味しいものを用意するから」
「ミルクティーとかあると嬉しいかもしれません」
「ハハ、参考にするよ」
なんだかんだ打ち解けているようで安心したが、すぐに思考を変更した。これは恐らくマスターが湊に合わせているのだ。「今日はマスターにとても迷惑をかけてしまったな」と一人反省し、今度来店する時には、私だけで来ようと心に決めた。
会計を済ませ、ドアの前まで来たところで、ちらりと彼女らを見た。
丁度優香さんが紅茶を飲もうとしているところだった。
私はどうやら、あの二人のことを一方的に気に入ってしまったらしい。
また逢えたらいいな。
そう心の中で呟いて、店を出ようとしたその瞬間――
「うっ……⁉」
突然低い呻き声のような声が聞こえたかと思うと、がたんと大きな音が鳴り響き、優香さんがバネに弾かれたように椅子を倒して立ち上がった。
「優香さん、どうされましたか?」
湊が素早く優香さんに駆け寄ったが、苦悶に呻く彼女に突き飛ばされて転がった。
「あ、ああ、が……⁉」
優香さんが自身の喉を伸ばし、爪を立てた両手で掴んだ。異物を取り除くように、何度も何度も喉を掻きむしる。十本の爪の痕に沿って、じんわりと血がにじみ出した。
直後、彼女の口から一気に泡が溢れ出した。
優香さんの片手が、助けを求めるように虚空でもがいている。
異様な光景だった。
彼女は苦しさのあまりか、カウンターに勢いよく体当たりしてそのままずるずると崩れ落ちた。
体を痙攣させながら息苦しげに床をのたうち回る。派手な音を立てながら、私たちが座っていたカウンターチェアをなぎ倒していく。そうして間もなく、優香さんはぴくりとも動かなくなった。
(なんで?)
そう言いたげな彼女の苦悶に満ちた表情が、私の網膜に焼き付いて離れてくれなかった。
「優香⁉ ねえ優香! しっかりしてよ優香‼」
沙織さんが優香さんに駆け寄り、両肩を執拗に揺らし続けている。開ききった優香さんの瞳孔に、もはや生気は微塵も感じられなかった。
「と、とにかく救急車を……」
マスターが慌てて店の固定電話に寄ると、
「いや、その必要はない。警察だけ呼んでください」
いつの間にか優香さんの傍でしゃがんでいた湊が彼を制止した。彼女の頸部に手を添えている。
落ち着いた様子の湊と、尚も動揺するマスター。
がくがくと唇を震わせながら、マスターは頼りない調子で言葉を紡いだ。
「だ、だが……。まだ、彼女が助かるかもしれないじゃないか」
「もう亡くなっていますよ。脈がない」
断言する湊に一瞬たじろいだが、観念したようにマスターが固定電話のボタンを三度プッシュした。
「ふう」と息をついて、湊は徐に立ち上がった。
彼の足元には優香さん〝だった〟体が倒れている。
彼が一瞥した先には、泣き崩れる沙織さんがいる。
カウンターの向こうには、途切れ途切れ警察に状況を説明するマスターがいる。
忙しない人の様子と雑然とした店内の中、私はただ立っていた。
目の前の現状は、さながらドラマのワンシーンのようだ。
確かに今、現実として人が死に、その現場に居合わせた私は否応なしに当事者となっている。これは紛れもない事実で、覆しようがない。
だが、私にはこの〝事実〟がファインダー越しの光景に思えてならなかった。
言いたいことがまとまらない。つまりこういうことだ。
受け入れることができなかった。
さっきまで楽しそうに笑っていた人が、一言も発さないただのモノに成り果てただなんて、すぐに受け入れられるわけがない。
どうして湊は冷静でいられるんだろう?
そんな疑問が頭をよぎってすぐ、自分の瞳が乾き切っていることに気が付いた。
涙すら流れない私自身に、心底嫌気が差した。
「なあ、千景」
湊がゆっくりと私の傍まで歩み寄ってきて、耳打ちする。
「……な、なに?」
やっとの思いで絞り出した声は上ずっていた。
「落ち着いて聞いてくれ」
「は……?」
全身に力が入っていくのを感じた。
眉間にしわが寄る。
乾き切った瞳に、涙が滲み出す。
握り締めた拳が、小刻みに震える。
――この男は、どこまで空気が読めないんだ?
私は勢いよく幼馴染を振り仰いだ。
この状況で落ち着いていられると思う⁉
そんな言葉が喉まで出かかったところで、私はそれを飲み込んだ。
湊の真剣な眼差しを見て、一体どうして彼に怒りをぶつけられるだろう。
いつもの眠たそうな目とは全く別物の、何か固い決心を携えた瞳。しかしどこか哀しげで、静かな怒りをも滲ませた、そんな瞳に見据えられ、私は少し後ずさりした。
固唾を呑む音がいやに響く。
きっとここで、彼の話を聞かないという選択をしても良かっただろう。無視を徹底しても良かったかもしれない。
冷静になれば様々な選択を取ることができたのだ。
知らない方が幸せなこともある。
しかし、彼の瞳には有無を言わせない力強さがあった。
私は気圧されるように首肯した。
「犯人は、この中にいる」