2
友人の情報は正しかったらしく、喫茶「テイスティ」は今出川通と新町通が交わる辺りでひっそりと営業していた。
紅茶専門店というだけあって英国風の外装をしており、左端に立てられたユニオンジャックが、穏やかにはためいている。
周りには手入れがよく行き届いた鉢植えが数鉢飾られていて、黒い外壁に彩りを添えていた。
全体的に控えめながらもお洒落で、学生に人気があるのも頷ける。
ドアを開けると、小気味好いカウベルの音が響いた。
「いらっしゃい」
この店のマスターと思しき男性が、カウンター席の向こうからちらりとこちらを見て静かに挨拶する。
よく通るバリトンだ。歳は五十半ばぐらいだろうか。なんとなく寡黙そうな印象を受けた。
「いかにも、カフェのマスターって感じだね」
店内を見渡しながら湊に話しかけると、彼は表情をピクリとも変えずに応えた。
「ああ、飲み方とかにうるさそうだな」
「そういう意味じゃないんだけど……。はあ、まあいいや」
湊には、いい加減デリカシーというものを覚えて欲しい。来年には二十歳を迎えて成人するというのに、今から将来が心配だ。
心の中でそう呆れていると、
「お二人で?」
落ち着いた声でマスターが訊ねてきた。
「ええ」と答えると、「どうぞ」とカウンター席を示した。ここに座れということだろう。お言葉に甘えて、背の高いカウンターチェアに腰を下ろす。すぐにお冷を出してくれ、「ご注文は?」とマスターが訊ねた。少し悩んで、私はアールグレイを注文することにした。湊はアイスティー。
「少々お待ちを」
そう言うと、彼はお湯を沸かし始めた。
ちらりと湊の様子を窺うと、彼は食い入るようにマスターの手元を眺めていた。
そういえば、この幼馴染は昔から何かを作る様子を見るのが好きだった。彼の母や私が料理を作る様子だったり、作業場がガラス張りになっているデパ地下の店だったり。
それらをただじーっと、何も言わずに見ているだけ。理由を訊いても「なんとなく」としか答えてくれないので「そういうものなのだ」と私の中で納得していた。
これもそれの一種だろう。全く、変わった趣味である。
「ちょっと……気が散るかな」
マスターが申し訳なさそうにそう呟いたが、湊は無視して眺め続けていた。
改めて辺りを見渡してみる。客は私達だけしかいなかった。
店内は少し手狭で、カウンター席の他に、テーブル席が三席ほど設けられているだけだ。インテリアは全て英国カントリー調に統一されており、さながらシャーロック・ホームズの世界に迷い込んだよう。
静かに流れるジャズの音色が「テイスティ」の落ち着いた雰囲気を演出している。
店内に拡がる紅茶の爽やかな香気に、私は思わず目を閉じたくなった。
穏やかな午後だった。
「お待たせしました」
しばらくジャズピアノの調べに耳を傾けていると、ベルガモットの気品ある洗練された香りがした。待ちに待ったグレイ伯爵の顕現である。丁度湊のアイスティーも出来上がったようで、甘酸っぱい香りが立ち昇っていた。
「いただきます」
ソーサーを持って、啜るように口に含む。ほろ苦くも爽やかな味。とても落ち着く味わいだ。
音を立てないよう、そーっとテーブルに置く。許容範囲を超えた、満ち満ちた気持ちを体外へ逃がすように、私は溜息をついた。
湊の方に目をやる。彼は何故か納得のいっていない表情を浮かべていた。
「どうしたの? 湊」
「苦い」
「……は?」
そう言うと湊は、カウンターに置いているガムシロップを四、五個程度紅茶にぶち込んだ。透き通った赤い液体の底から、靄のようにガムシロップが拡がっていく。
濁りきった紅茶をストローで数回ステアして一口飲むと、湊は満足気に口角を少し上げた。
「うん、美味い」
ああ、そうだった。こいつはカルピスを原液で飲めるほどの大の甘党だった。これには、寡黙そうなマスターも苦笑いを隠し切れていない。
「そんなに甘いのが好きならさ、唇にガムシロップでも塗っておきなよ」
私の口許を指してから、湊の口許に人差し指を突き付けると、彼は至極真面目な調子で、
「そんなことしたらベタベタするから嫌。それに、唇に塗っただけじゃ一口飲んだ時に一緒にほとんど流れ込んで、飲み物それ自体は甘くならない。だから追いガムシロをしなくちゃならないだろ? コスパ最悪。資源の無駄。つまり、却下」
「皮肉よ。ひ・に・く」
「それが皮肉? イギリス人と京都人にご教授願ってきたらどうだ?」
「う、うるさいな」
甘味に対してどうしてそこまで情熱を注ぐことができるのか。歳を取ってから糖尿病になっても絶対面倒なんか見てやらないぞ。
というか、追いガムシロってなんなのよ? 初めて耳にしたよ、そんな概念。
「ハハハ、好みは人それぞれだからね」
マスターが眉を八の字にしてフォローに回った。
「すみませんマスター。こいつ、ほんと配慮ってものが分からない奴で……」
「謝れ」と湊を小突くと、湊が片肘を立てながら怪訝そうにこちらに顔を向けた。
「確かに俺にとっては苦かったけど、紅茶自体はめちゃくちゃ美味かったぞ」
「あのガムシロップの量でよく紅茶自体の味を褒めることができたわね。もはや原型留めてなかったでしょ、あれ」
「入れる前に一口飲んだからわかる」
一息入れるように再びアイスティーを喉に流し込むと、湊は「まあ、でも……」と呟いた。そして、マスターを見据え、
「作ってくれた本人の前でやることではなかったな。すみませんでした」
軽く頭を下げた。
「いやいや、いいんだよ。好みの味にして楽しんでくれ。そのためにガムシロップやミルクを席に置いているんだから」
ハハハ、と笑うマスターを見て、ほっと胸を撫で下ろす。どうやら私が最初に抱いた印象と、実際の性格は真逆のようだ。
私は改めて、アールグレイに舌鼓を打とうとカップの持ち手に手をかけた。
と、その時――
カランコロン。
和やかな雰囲気を切り裂くように、突然カウベルが鳴り響いた。