1
私、来栖千景はサークルや部活に所属していない。だから普段は講義が終わればさっさと家路に就くのだが、その日は少し違った。
遡ること一時間ほど前。
いつもはつまらない債権各論の講義中、私の隣に座っている友人が何かを思い出したように突然耳打ちをしてきた。
「最近この辺りにできた喫茶店のこと、知ってる? なんでも紅茶専門の喫茶店で――勿論美味しい紅茶を淹れてくれるんだけど――そこの店内がめちゃめちゃ映えるんだって。今度湊くんと行ってみなよ」
〝映え〟は既に死語ではないのか? という疑問は置いておいて、紅茶専門の喫茶店という言葉に、私は強く興味をそそられた。
「え、それどこにあるの? というか店名は?」
努めて静かに、友人に質問する。
友人は「よし釣れた」とでも言うように目を細めた。
「やっぱ湊くんと行きたいんだ~。いいなあ、彼氏がいるって」
彼女がニヤニヤとこちらを見る。
「は?」
想定外の返答に、私は二の句を継ぐことができなかった。
「『は?』って千景、湊くんと付き合ってるんでしょ? その店、この大学のカップルにも人気なんだよ」
状況が飲み込めた。
誤解だ。全くの誤解だ。
私は即座に反駁を加えた。
「そんなんじゃない! 湊はただの幼馴染だから! 付き合ってないから!」
思わず声が大きくなってしまったらしい。友人が焦ったように人差し指を何度も鼻先で立てた。
慌てて自分の口を抑えたが、時すでに遅し。
壊れかけのロボットのように恐る恐る視線だけを前に向けると、教卓に立つ教授が鬱陶しそうにこちらを睥睨していた。
「そこ、静かに」
「すみません……」
百人弱に及ぶ学生たちの視線が痛い。顔がみるみる熱くなっていく。その視線から逃れるように、私は項垂れた。
ちなみに湊とは、私の幼馴染である土井湊のことだ。
小中高と同じ学校に通い、何の因果か、大学も同じ京城大学法学部に通っている。日本ではそこそこ名の知れた、京都の私立大学だ。
別に私が彼に合わせたとか、彼が私に合わせたとか、そういうわけではない。気が付けば同じ学校に通っていた。それだけのことである。
彼はその性格が災いして、私以外に友達らしい友達がいない。
それ故に行動を共にすることが多いのだが、多感な大学生諸氏にはカップルのように見えるらしい。この友人もその一人だ。
――と、まあ湊の説明はこれぐらいに留めておくとして、話を元に戻そう。
「で、なんて店?」
私は辺りを見渡して様子を伺い、再び友人に囁いた。
「『テイスティ』って店。確か上京区役所の近くだったと思うよ」
「へえ、一緒に行こうよ。今日」
「ごめん、今日サークルがあるんだ~。いいから湊くんと行ってきなって」
友人は私をからかうようにサムズアップした。
法が許すのであれば、今すぐその親指を詰めてやりたい……。そんな衝動に駆られたが、私の理性がすんでのところで、「お前は法を修める者だろう?」と問いかけてきたので、どうにか抑えることができた。
「はあ……」
「なになに? 恋煩いって奴?」
前言撤回。
「あんた、そのゴッテゴテのネイル引き剥がして、ほんとに親指詰めちゃうよ」
「マジでごめん。このネイルめちゃくちゃ気に入ってんだって。勘弁してよ。――でも千景、今日はこの講義で終わりでしょ? 時間も丁度いいし、明日は土曜日で休みだし、このチャンスを逃す手はないわよ!」
どうやら友人は、何が何でも私と湊に行かせたいらしい。溜息が際限なく私の口から洩れ出してくる。
いちいち否定するのも疲れた。その上今は講義中だ。
彼女の捉えようによれば、承諾したとも取れるであろうことが癪だったが、「もう……」と呟いて、話を切り上げた。
友人が慣れないウインクを投げかけてきたので、ベーっと小さく舌を出してやる。同時に「前を向け」とジェスチャーを駆使して伝えると、彼女は口元に悪戯っぽい微笑を浮かべながら、机上のレジュメに目を落とした。
と、まあ、多少の誤解はあったが、とにかく私はその「テイスティ」なる店に行きたくて仕方がなくなっていた。そのことで頭がいっぱいで、後半の講義内容はほとんど覚えていない。えーっと、甲と乙が契約書で……なんだっけ?
友人の言った通り、私の最後の講義は四限だ。しかも、あの堅苦しい教授には珍しく、終了時刻の十分前に講義は切り上げられた。
待ちに待った《喫茶「テイスティ」開拓作戦》である。
ちらりと腕時計に目をやると、午後四時二十分を示していた。ティータイムにはもってこいの時間に、思わず笑みがこぼれる。
だが、なんだかもやもやしてすっきりしない。一人で新しい店を開拓することに、別段なんの抵抗もないはずなのだが……。
そうか、あれだ。どうも友人の「湊くんと行ってきな」という言葉が頭にこびりついて離れないのだ。
「ったく……」
別に湊とどうしても行きたいというわけではない。というかむしろ一人で行きたい。
ただ、頭の中がごちゃごちゃしたままなのが気に食わないから、渋々彼を誘うだけだ。紅茶を嗜むのに雑念は無用だ。
そう自分に言い聞かせて、湊にお誘いのLINEを送り付けると、ものの数分もしないうちに返信が来た。
『ああ』
相変わらず、あまりにも端的で一切の無駄がない、洗練された二文字だった。
初めてこのメッセージを受け取った者は、果たして彼の真意はいかがなものか、判断に窮するだろう。
だが、私には分かる。
これは了承しているのだ。
仮に気が乗らなかった場合には、「無理」の二文字でお断りの意を表明してくる。
そんなわけで、友人の思惑通り湊と《喫茶「テイスティ」開拓作戦》を決行することになり、烏丸通に面した西門へ急ぐと、既に幼馴染は門柱に身を預けて待っていた。
流石に早すぎるでしょ。
驚きのあまりその場で立ち尽くしていると、湊は私の存在に気付いたらしく、大きな欠伸をしながらこちらに歩み寄ってきた。
目の前までやってくると、そのまま両手をジャケットのポケットに突っ込み、背中を丸めて私の顔を覗き込んだ。
「遅い」
ひどく機嫌の悪そうな表情だ。目にかかるほどの黒い前髪の隙間から覗く眼は、恐らく〝ジト目〟なるものと言って差し支えないだろう。
私はイラスト方面に明るい人間ではないが、そんな私でもスケッチブック上に完全再現できるほどに完璧な〝ジト目〟であった。
まあ、さっきもみっともない欠伸をしていたし、多分こいつは眠いのだ。眠たそうなのはいつものことだけど。
あ、また欠伸した。
「湊が早すぎるだけでしょ」
「丁度帰りがけだったんだよ」
三度大きな欠伸をすると、湊はくるりと回れ右して校門の外へ向かった。
数歩進んで肩越しに私を見、「亀かよ、お前は」と言い放つと、またずんずんと歩を進める。
「湊、店の場所知らないでしょ? あっ、ちょっと待ってってば!」
歩幅を合わせるという発想がない湊は、どんどんどんどん先へ進んでいく。
置いて行かれないよう、彼のもとへ小走りで駆け寄ると、一陣の風が私の頬を撫でた。
仄かに冷たいそれと共に、どこか切ない金木犀の香りがした。