2017年3月(12)
では、実在しない「自分」には全く価値が無いのかといえば、そんなことはない。確かに、「自分」とは「あると思えばある」程度の「概念」にすぎないので、「誰がいつ何を思おうが、それとは全く関係なしに確固として存在する」という意味での「実在」にはあたらない。でも、物理的な「自分」の有り様を説明するのには非常に役立つ。さっき上で “「自分」の実体とは身体の構成物質の「動き」” と書いたけども、その中で最も「自分」と密接に関係する「動き」は、とりわけ「脳神経細胞の動き」だと現在は考えられている。なぜなら、それはコンピュータのような一種の「情報処理装置」だと見なすことができ、我々の「思考」や「記憶」はその演算結果だと解釈することができるからだ。そして「思考」や「記憶」の集合体が「知性」となり、さらに「自分」を形づくるというのが、もっぱら科学分野での「自分」に関する(現時点での)最有力仮説だろう。整理すると、「自分」とは「脳神経細胞の動き」=「情報処理装置」の総括的な機能であり、その物理的な実体は「脳神経細胞を構成する軸索や受容体の周辺および内部に存在する化学物質(電解質)の分布の変化」ということになる。
ところで科学者は、「情報処理装置」の機能が「自分」=「自意識」=「人間の主観的意識」を形成するのに十分な性能を持つかどうかの判断基準として、高度な「知性」を備えているかを最も重視する。そして逆説的に、高度な「知性」があるからこそ、人間の脳機能はコンピュータによる出力といった単なる計算結果と一線を画するのだと主張する。ただし、人間よりも下等な生物であっても、脳機能の物理的な実体は相変わらず「脳神経細胞の内外にある化学物質の分布の変化」であり、それ自体は人間と何ら変わらない。では人間と下等生物のどこに違いがあるのかというと、科学者らは脳機能の計算量と記憶容量だと言う。つまり、進化の途上で脳の計算量と記憶容量が次第に増加していき、ある一定の “しきい値” を越えたときに「自意識」が芽生えたと考えているのだ。そして彼らは、近い将来、AI(人工知能)がその “しきい値” を越えて「自意識」を発生させるかもしれないと予想している。
そのような科学者らの思想は、科学者以外の一般人をも含む、もっぱら科学を信条とする者(科学主義者)の多くが持つ生死観へと直結する。すなわち、我々に「自分」=「自意識」があるのは高度な「知性」を備えているからであり、その高度な「知性」は我々に地球を破壊あるいは救済しうる絶大な力をもたらした。どちらの力を行使するかは今後の人類の選択によるが、いずれにせよ人間を偉大たらしめているのは高度な「知性」ということだ。ただし、高度な「知性」は「人間」が存命して脳機能を動作させている間のみ有効であり、死んでしまえば、もはや機能停止した物理的実体である「脳神経細胞と化学物質」の残骸しか残らない。だから「死」は、無上の価値をもつ高度な「知性」を永遠に失わせる真に忌むべき事態なのであり、よって我々(科学者主義者)も我ら自身の死を恐れる、という生死観だ。
ところで、最近出てきた研究分野で「自然計算」というのがある。この分野の研究者は、自然界で生じる一切の物理現象を計算過程とみなし、そこから計算モデル(数式)を導き出そうとする。具体的には、①水が高所から低地に流れる、②太陽の光が地上に届き気温が上がる、③惑星が太陽の周りを回るといった全ての物理現象を「計算」=「演算」、すなわち、“情報を「入力」として受け取り、何らかの「加工(処理)」を施した上で「出力」として返す” プロセスと見なす。すると、①高所の水(入力)が落差で勢いを増し(処理)低地に流入する(出力)、②太陽光のエネルギー(入力)が大地に吸収され熱に変換されて(処理)大気温を上げる(出力)、③太陽の質量が重力を発生させ(入力)惑星を引き寄せることによって(処理)継続的な太陽への落下=公転運動を起こす(出力)と見なすことができ、それぞれ数式で表すことができるようになる。例えば、①の水流がパイプを通ることを前提とするなら、式はQ=S×v(Q:1秒当たりの水量,S:パイプの断面積,v:流れの秒速)となる。②と③はこれよりもずっと複雑な式になるのでここでは書かないが、②は太陽放射のエネルギー(キロワット)計算式、キロワットと温度の変換式を順次計算することになり、③は惑星の公転軌道が完全な円であることを前提とすれば、円の半径、太陽から見た惑星の角度、惑星と太陽を結ぶ線分が公転によって横切る領域の面積、そして太陽の質量で与えられる(2階の)微分方程式を解くことになる。それぞれの数式の具体的な形は以降の話にかかわってこないので気にしなくてよいが、これらの例から、およそ全ての物理現象が数式で表せそうだという印象は持ってもらえたのではないか。もっとも、宇宙の森羅万象が1つの例外もなく数式で表せるという証明はまだされていないが、それでも、人間が目で見ることのできる範囲のモノは現状でほぼ全てが数式化できることがわかっている。
数式で表せるということは、計算によって未来を予測したり過去を推測したりできるということだ。例えば、上の①で「高所の水」の総量がわかっていれば、毎秒の水量をQ=S×vで計算して足し上げていくことで水流が途絶えるまでの時間が予測できる。また、「高所の水」の放水を開始する前の総量と今の水量の差がわかれば、同じような計算でいつ放水が開始されたのかを推測できる。そして、そのような計算をコンピュータにやらせた場合、それは一般的に(現実を再現した)コンピュータ・シミュレーションと呼ばれる。ただし、もし①を現実世界で実際に起きた物理現象と寸分たがわぬように再現しようとするなら、シミュレーションに使う式がQ=S×vだけでは全く足りない。しかし、①の現象に関連すると思われる式を可能な限り全て集めコンピュータで同時に実行することができたなら、現実を模したかなり精度の高いシミュレーションになることが合理的に予想できる。そのようなシミュレーションが現実の未来をかなり正確に予測することは、実際、台風の進路予想や気象予測などで我々も日常的に経験している。
以上のような、コンピュータ・シミュレーションで現実を正確に再現できるという事実は、逆説的に、現実がむしろコンピュータ・シミュレーションのようなモノなのではないか(だからこそ、計算通りの結果が現実でも起こるのだ)、という視点を我々にもたらす。学問の世界では、実際にそのような考えに基づいた「デジタル物理学」という研究分野もある。その分野では、宇宙全体が数式(群)で表現可能であり、そういう意味において巨大な「情報処理装置」だと見なされる。もちろん、「自然計算」も「デジタル物理学」も現実世界を「そのように見なせる」というだけであって、今のところ実際にそうであるという完全な保証はない。しかし、これについては想像を絶した広大さをもつ宇宙が対象であるだけに保証が永遠に得られない(つまり実際どうであるかが原理的に確定しない)可能性も高く、そのくせ「情報処理装置」と見なしたところで特に不都合がないことはすでに述べた通りである。したがって、将来「不都合」が出た際は撤回される議論であることをふまえた上で、ここでは宇宙を「巨大な情報処理装置」と見なすことにしよう。そのような視点に立ったとき、「情報処理装置」としての宇宙は一体どのくらいの「計算量と記憶容量」をもつことになるだろうか。なにせ、物理的な実体としては「想像を絶した広大さ」なわけだから、「計算量と記憶容量」も「想像を絶した」大きさだと考えるのが自然だろう。
上で紹介した「科学者らの思想」では、「自分」=「自意識」が発生するには、「計算量と記憶容量」のサイズがある一定の “しきい値” を越えることが条件になるとされていた。そして、「情報処理装置」としての宇宙がもつ「計算量と記憶容量」は、間違いなくこの “しきい値” を超えていると断言できる。なぜなら、我々個人の心(脳神経細胞の内外にある化学物質の分布の変化)も身体(肉体の物理的な構成物質)も、物質として漏れなく宇宙に内包されているからである。これは、我々個人が宇宙という「全体集合」の「部分集合」だということを意味しており、ならば「計算量と記憶容量」のような集合の属性に関して「全体集合」が「部分集合」を下回ることなど論理的に言ってありえず、よって宇宙がもつ「計算量と記憶容量」が個人のそれを凌駕することは自明だと言える。したがって、もし「科学者らの思想」に賛同するならば、宇宙全体もまた「自分」=「自意識」をもつことを認めなければならない。
そうすると、次のことが言える──「自分」の消滅に関して、もし個人が死んで彼に付随する「自分」が消えたとしても、宇宙全体としての「自分」は残っているため、結局、「自分」が失われたことによる損失は発生しないといえる。それに対しては、“いや、宇宙全体としての「自分」と個人の「自分」は全く別物なので、たとえ個人の死後に宇宙の「自分」が残ったとしても代わりにはなりえない。したがって、やはり損失は発生する” という反論が有り得るだろう。この反論については、前段だけなら俺もおおむね同意見だ。我々個人としての「自分」が目的とするものは、第一に「自分の存続(自己保存)」と「自分の系統種の拡散(繁殖)」で、そのため短期的には「食欲」「性欲」「睡眠欲」の3大欲求を満たそうとし、長期的には「愛」や「善」を希求するといった行動パターンを見せる。しかし、宇宙全体としての「自分」には間違いなく3大欲求を満たす必要も「愛」や「善」を求める理由もないので、その目的もおのずと個人の「自分」とは異なるだろう。よって、宇宙の「自分」と個人の「自分」が別物というのは確かにその通りだ。しかし、後段の「代わりにはなりえない」「損失は発生する」という部分にはとても同意できない。まず、個人的な「自分」の目的に改めて注目してみると、「自分の存続(自己保存)」が「自分の系統種の拡散(繁殖)」を実現するための十分条件になっていることがわかる。なぜなら、「自己保存」が達成できていないというのは死ぬか故障(病気や怪我)しているわけで、そんな状態の生物が「繁殖」などできるはずがないからだ。よって「自己保存」は「繁殖」を達成するための手段というサブ的な位置づけとなるため、個人の究極的な目的は「繁殖」の方だと考えられる。しかし生物学が明らかにしているように、この「繁殖」という目的は遺伝子に書き込まれたプログラムの指示・命令にすぎない。ということは、「繁殖」することを欲したのはあくまでプログラムの書き手であって「個人」ではないということだ。では、その「書き手」とは一体誰か? 俺はそれが「宇宙」だと考えている。自身の目的を達成するために「宇宙」が我々「個人」の目的に「繁殖」を設定したのだ。