2017年3月(11)
“ちょっと待って。私があえて言わなかったのは、アンタの兄貴が母親を攻撃したっていう確証がなかったからよ。だって、私たちが直接感知できるのは契約してるアンタへの攻撃だけで、母親は管轄外なんだから。もちろん、外から見れば彼女の身体に何か異常が起きてることぐらいはわかったわよ。でも体内まで監視することはできないから、異常の源をたどって攻撃者を特定することはできなかった。もっとも、状況証拠的にアンタの兄貴が限りなく怪しいとは思ってたけどね。だけど、奴が仮に犯人だとして、きっとアンタを攻撃した時と同じように奴自身は「無自覚」だったはずよ。アスタロトに操られて、知らないうちに「呪」を自分の母親にかけてしまったんだと思う。だから明確な殺意はなかったろうし、お母さんが死んだ時は本当に「悲しみ」を感じてたと思うわ。”
だとしても、だよ。故意でなくとも奴がお袋に手をかけたのなら、報いを受けて当然だろ。
“だから、奴が手をかけたという決定的な証拠がないの! それに、今となってはそのことに特別大きな意味はないのよ。いい? その頃には、アンタのお母さんはとっくに自分の身体を放棄してたの。アンタに胸の症状が出て、病気の進行阻止が戦いの絶対防衛ラインになったとき、お母さんは持てる力の全てをアスタロトへの攻撃とアンタを病院に行かせることへ振り向けたの。その結果、彼女が自分の身体を回復させるのに割ける余力なんて全くなくなったわ。そうなれば当然、お母さんの身体は徐々に衰弱していくことになる。だから、もしアンタの兄貴が攻撃を加えなくても、いずれ遠くないうちに彼女の身体は自ら生命活動を停止したでしょう。もちろん、そんなことはアンタのお母さんだって百も承知だったわ。でも、壊れかけた自分の肉体が滅んだところで今は「魂」のない抜け殻にすぎないし、それを維持するくらいならアンタを助けることに注力しようって考えたのよ。だから、もしアスタロトが兄貴を操って手を下したとしても、そんなの無意味な八つ当たりでしかなかったということよ。だって、放っておいてもいずれ死ぬ運命にあった肉体をわざわざ殺したところで、戦況には全く影響しないんだから。”
それで? お前さ、どうもさっきから俺の怒りの矛先を兄貴に向けさせまいと必死だよな? なあ、いつも奴を目の仇にしてんのに今日は一体どういうワケだ? …………お袋か。お袋がそうしろって言ってんだな?
“……実際、彼女はアンタと兄貴が仲たがいするのを望んでないわ。どっちも愛しい我が子だから、どうか自分がいなくなっても仲良くしてほしいって心から願ってるの。”
いや、そりゃ無理だろ。奴がこれまでにしたことはココでさんざん書いたし、それはお前だって知ってるだろ。それをわかった上で仲良くしろって言ってんの? いや無理だろ。大事なことだから2回言いました。つーか、お袋がそう願うのは当然として、なんでそれをお前が代弁してんの? もしかして、そんな風に俺と兄貴の仲を取り持つことが、お袋がお前らと共闘するための条件にでもされちゃってんの?
“そうよ! でも、それでアンタの母親から強大な助力が得られるのよ!? こっちだってアスタロトにみすみすアンタを殺させるわけにはいかないんだから、そりゃ条件ぐらいのむでしょうよ!”
あ、そう。でも、もういっぺん言うぞ。 イ・ヤ・ダ!!
“どうして!? もし母親の助力が十分に得られなかったら、アンタ明日死ぬかもしれないのよ!それでもいいの!? いや、死ぬだけならまだマシよ。死んだ直後はアンタの魂の争奪戦になるから、もし私たちがアスタロトに競り負けたらアンタは奴の「所有物」になって、永劫の時を奴の奴隷として過ごすことになるのよ。その間は、お母さんにも、私たちにも、レッドにも決して会えない。もちろん、そうなったら私たちはアンタの奪還に全力で動くわ。でも、それが上手くいくのが何千年先かになるか、それとも何万年先か、何億年先なのか予想もつかない。もしかしたら永久に無理かもしれない。そうなるのを確実に防ぐには、明日お母さんに100%の力を出し切ってもらうしかないの。それには彼女の望む条件をかなえて、もしもの時には万全の状態で争奪戦に臨んでもらうしかないってことぐらいわかるでしょう!?”
いや、お前こそわかれよ。俺の性格からいって、今さらここで妥協すると思うか? 俺、さっき「手術の結果については、もうどうなろうと受け入れようって腹くくったから別にいい」って言ったよな? アレ、自分が死ぬことだけじゃなく、魂がアスタロトの手に落ちることも想定した上で言ってたんだけどな。
“なんで? アンタ、本当に死ぬのが恐くないの?”
ああ、そこまでじゃないかな。
“永劫の時を、アスタロトの「所有物」として、誰にも会えずに過ごすのも耐えられるっていうの?”
さあ。でも、そうなったらなったで耐えるしかないだろ。どこでどう過ごすことになるのかは知らないが、どうせそこでは「死んで終わり」ってことで強制終了することもできないんだろ?
“当然でしょ。”
だったら、耐えるもへったくれもないじゃねーか。どうせ死ぬこともできずに存在し続けなきゃならないんだから。「永劫の時」がたった頃、とっくに気が狂ってるのか、自我が失われてるのかは知らないが、俺はそうなってもなお「存在」を続けてるだろうから、それを「耐えた」と言っていいなら「耐えられる」ってことなんじゃね?
“「永久に無理かもしれない」とも言ったわよ。”
ああ、そうだったな。もうそうなったら、その時は仕方ないだろうな。
“…………本気で言ってるのね。しかも、その態度が決して強がっているわけでも自暴自棄なわけでもないってことはわかるわ。だって私はアンタと契約してるから。でもどうして? なんでそこまで達観しきったような心境に至ったの?”
どうしてかなぁ。それはたぶん、先週入院してから考えたり書いたりしたことが影響してるんだと思う。とにかく入院中はヒマでさ、病室の天井を見ながら考えたことを、なんとなくノートPCでポチポチ文章にまとめ始めたんだ。そしたら、なんか書いていくうちに論文っぽくなっていったんで「歴史の不在証明」って仮のタイトルつけて書き進めていったんだけど……
“ちょっと待って。いきなり話が飛び過ぎて、よくわからないわ。そこからどうやったら、自分の生死や魂まで「とるに足らぬこと」とでも言わんばかりの今のアンタにつながるの?”
ああ、うん。最初は本当に「歴史」というか、「過去」についての考察だったんだよ。そしたら際限なく思索が広がっていってさ、しまいには「歴史」「過去」だけじゃなく「生死」や「魂」まで考察対象になっていったんだ。その過程でそれらの概念は軒並み再定義されることになったんだけど、新しい定義を通して見た俺の主観的な「世界」はすっかり一変してしまった、ってな感じかなぁ。俺がもし変わったとしたら、たぶんそのせいじゃないかな。その辺りをこれから話すから、ちょっと聞いてくれ。
一概に「過去」って言うけどさ、俺らがそう呼ぶものの実体って、結局のところ歴史の本とか遺跡とか地層とか、考えてみたら全部「現在」に存在するものなんだよな。で、そこから「昔はきっとこうだったに違いない」って想像してるのが概念としての「過去」であり「歴史」なんだ。まあ想像って言っても、なるべく科学的な矛盾とか論理的な矛盾がないような想像に限るっていう一応のルールはあるんだけど、でもそう言ったところで「想像の産物」であることには変わりないわけで、そういう意味じゃ「幽霊」とか「妖怪」とか「神」とか「悪魔」といったモンとそう変わりゃしないんじゃないかって。いずれにせよ実体として存在する「歴史」ってのは、あくまで本とか遺跡とか地層のような現在に存在する物質でしかなくて、でもそれは我々が通常考える「歴史」とは別モノでしょ?という意味で、「歴史の不在証明」ってな題名なワケ。
でも、同じようなモノの考え方をあてはめてみたら、「歴史」だけじゃなく「自分」ってヤツも実在しないなって気づいたんだ。「自分」の実体として存在するのは、あくまで水、タンパク質、脂質、ミネラル(無機質)、糖質(炭水化物)からなる身体という物質で、これらは「自分」が死んでも消えて無くなることはない。死んだ直後であれば、身体の構成物質(水、タンパク質、脂質、ミネラル、糖質)はほとんど生前と変わらない形でまとまって「死体」という形で存在し続けるし、時間がたつと「まとまり」は解けて散逸するけど、身体の構成物質自体は別の場所で別の「モノ」として存在し続ける。なので、これらは我々が通常「死後は失われるモノ」だと考えている「自分」ではないことがわかる。なぜなら、「死体」も構成物質も死後失われることはないからだ。では、死後失われる「自分」の実体とは一体何だろうか?
「死体」と生きてる人間の違いについて、よく言われるのは「死体は動かないでしょ?」ということだ。つまり、同じ構成物質でも動けば「生きてる人間」で、動かなければ「死体」というワケだ。そして、前者にはあって後者には無いのが「自分」なのだとするなら、「自分」の実体とは身体の構成物質の「動き」に他ならないのではないかという仮説が成り立つ。もしこの仮説が正しいなら、やはり「自分」は実在しないと言えそうだ。なぜなら、通常「動き」というのは物質の時間変化を指すが、我々の認識する「時間変化」とは、現在の物質がいる位置と、過去にその物質がいたとされる位置を推測させる現在の物質(船が動いたあとに残る航跡=水分子の分布、物体が通過したあと周囲に生じる風圧=空気分子の分布、動きを撮影したカメラの記憶装置内の電子データ=電子の分布、動きを見ていた脳内の記憶=化学物質の分布など)を比較して「この物質の位置はきっとこう変化したに違いない」と我々が想像した結果だからだ。つまり、「時間変化」もやはり「想像の産物」にすぎないワケで、ならば「物質の時間変化」である「動き」もまた「想像の産物」となり、それらは我々の脳内の「概念」でのみ存在しうることになる。それに対し、物理的な実体として存在しているのは、あくまでも現在の物質の位置と、その物質が以前存在したとされる位置に残っている、現在の痕跡(航跡、風圧、電子データ、脳内の記憶など)だけだ。しかし、「現在の物質の位置と現在残っている痕跡」が「動き」の正体(実体)なのだと言われたところで、それは我々が通常考える「動き」とは別モノでしょ?という意味で「動き」は実在しないことになる。これは、さっき「歴史の不在証明」をしたときと基本的に同じロジックだ。そして、「動き」が実在しないのなら、それが実体だと仮定していた「自分」もまた実在しないことになる。