2017年3月(9)
“なるほど。てことは、今日来た目的は明日の手術をどうにか成功させてほしい、ってとこかしら。”
うんにゃ。手術の結果については、もうどうなろうと受け入れようって腹くくったから別にいい。ただ、そもそも論として担当医からは「ここ(今いる大学病院)で実施した冠動脈ステント留置法の成功率は今のところ9割以上です」って言われてるし、明日の手術について俺そこまで心配してないんだよ。
“ちょっと、本気で言ってるの!? これが単なる心臓病なワケないじゃない! アスタロト側が攻撃してきた結果に決まってるでしょ!!”
だろうね。でもそれを入れてもやっぱり、「手術が成功するかどうか」は今の俺にとって「一番の心配事」じゃないんだ。でもまあ、そうだな、じゃあここらで「そっち側で起こったこと」をひと通り聞いとこうか。どうせお袋の死と俺の心臓の件とはつながってるんだろ?
“そうよ。でもアンタが心臓を悪くした大元の原因は、DBCに転職する前の時期にまでさかのぼるわ。アンタが転職するかどうか迷ってたとき、私が「今の会社に留まれば死ぬ」って言ったの覚えてる? このままだと「近い将来必ず糖尿病かガンか心臓病を発症する」って。”
ああ。でもそれは前の会社での「ストレス」が原因で、アスタロトの攻撃によるものじゃないって言ってなかったっけ?
“ええ。だからDBCに転職して労働環境が良くなったら、「半身のしびれ」も消えて心身に受けたダメージもいったんは回復したんだと思う。でも、そのとき受けた「傷」は心身に蓄積される形で残ったの。それをアスタロトは見逃さなかった。母親の事故と死でまた強い「ストレス」がアンタにかかったのを利用して、「傷」が病変へと成長するようひっそりと働きかけたのよ。”
ん-、ちょっと待って。こういうこと俺が言うのも何だけどさ、俺って「女神級」のお袋から護られてるんじゃなかったっけ? 特にお袋が倒れてからは、天界の郎党を引き連れたお袋の魂と魔界で仲間をかき集めたアスタロトとが全面対決して膠着状態におちいってる、って話じゃなかったっけか。だったらさ、そんな非常事態の最中にいるアスタロトが俺にコソコソちょっかいかけてる余裕なんてあったの? それに、もし奴がそんな怪しい動きをすれば「女神級」のお袋が即行で勘づいたんじゃない?
“そうね。確かに、奴がいくら巧妙に偽装したとしても、奴本人の干渉だったらアンタのお母さんが間違いなく気づいたでしょう。でもそういうときこそ、悪魔は狡猾にも決して自らの手を汚さないのよ。”
ああ、そうか。自分じゃない誰かを操って干渉させたってことか。しかし、誰を……? そういやお前、前に兄貴の嫁さんのことを「アスタロトの手の者」とか言ってたよな。あーいや、しかし、それはどうかなあ? お袋が東京に来たとき以来俺は嫁さんと直接顔を合わせてないし、久しぶりに会ったのは葬式のときだったけどその時はもう心臓の症状が出てたしなあ。
“そう。だからアンタに「呪」をかけたのはあの女じゃない。それに、もし手を下したのがあの女だとしたら、お母さんにとってはアスタロト本人が仕掛けてくるのとそう変わらないわ。だって、あの女はすでに「アスタロトの眷属」としての気をまとってるもの、”
じゃあ、「実行犯」は誰だったの? 今さらもったいぶんなくていいから教えろよ。
“いい? あの女がやれば気づかれる。けど、もしアスタロトの直接の眷属ではなく、あの女の言いなりになる人間がいたなら……しかも、お母さんが少なからず気を許してしまう相手だったら?”
ああー、兄貴か。
“アンタと兄貴は、お母さんが入院しているあいだ度々東京や九州で顔を合わせてた。そのとき、兄貴はあの女に吹き込まれた「呪」をアンタにかけたのよ。もっとも、兄貴自身はそのことにきっと無自覚だったんじゃないかしら。ウイルスみたいに、知らない間に感染して知らない間に他人へとうつす、そんな感じだったと思う。でもこの「呪」はアンタ専用だから、兄貴自身には特に害はなかったでしょうけど。ただ、それを言うならあの女もきっとアスタロトに「操られた」という自覚はなかったと思うわ。きっと、アスタロトに植え付けられた悪意を「自分の意思」だと錯覚してたでしょうから。そうだとしたら、兄貴も嫁もいわば「無意識」にアンタを攻撃したってことよ。ただ、彼らを操ったアスタロトには、間違いなく明確な「悪意」があった。そして奴には、その「悪意」を兄貴やあの女に伝播させて操ることもできたし、その方がむしろ、動機に裏打ちされた行動となって企みが成就する確実性も増していたはず。けど奴は、あえてそうしなかった。なぜなら、アンタの母親は誰よりもそういう「悪意」に敏感で気づいてしまうから。いや、それでも、もし兄貴やあの女自身に「悪意」がなかったとしても、普段の母親なら彼らから微かに漂う「悪意」の残滓に気づいて適切に対処したことでしょう。ただ、このときはアスタロトとの総力戦の最中でどうしても全方位的な監視が行き届かず、加えて、自分の息子(兄貴)相手だと猜疑の目もわずかに曇ってしまった。その隙をアスタロトにつかれたのね。”
なるほどねー、そういうことか。
“でも、胸に発作の症状が出てからはさすがにアンタの母親も気づいてた。そこから、戦況はアンタの病状の進行をめぐる攻防戦に一変したの。アスタロトは、また前みたいにアンタを「堕落」させる「呪」をかけて病院に行く気を削ごうとしたし、母親はアンタにシグナル(「心臓の不調」を想起させるような偶然の出来事を日常で起こす)を何度も送って身体の異変に気づかせようとした。でもこの攻防戦は当初、アスタロト側が優勢に事を進めたわ。なぜなら、母親サイドはアンタの目の前で「シグナル」という物理現象を頻繁に起こさなくてはならないのに対し、アスタロト側は単にアンタの目や注意をそらせばよかったから。そこで母親は私とアスタルテに助力を求めてきた。”
ん? お前らは、お袋みたいな「天界」の住人側から一貫して「蚊帳の外」に置かれてたんじゃないの? なんでいつの間にかお袋とナチュラルにコミュニケートしてんの?
“この時に初めて接触したのよ。それに、全然「ナチュラル」なんかじゃなかったわ! 私なんてアンタの母親の姿を、太陽を直視したときみたいに強烈な「光」としか認識できなかったし、声は雷鳴みたいに轟くばかりで何一つ聞き取れなかったわ。だからアンタの母親の相手をしたのはもっぱら同じ「女神」クラスのアスタルテで、私はずっとその陰に隠れてた。これは後からアスタルテに聞いた話なんだけど、その時のアンタの母親はこう言ってたそうよ。「もしここで手を貸してくれたなら、息子の魂を数万年間あなた方に預けてもよい」って。”
んんー? それ、どういうこと? お袋って、お前らによると「天界」側なんだよな? なのに、お袋は本来天敵であるお前ら悪魔側に、わざわざ自分から歩み寄って取引を持ちかけたってこと? なんかそこまでいくとさ、ちょっと設定ブレブレすぎない?
"「悪魔」じゃねえわ!! アスタルテは「古代神」だし、私だって正確には「魔神」よ!"
「魔神」も「悪魔」も似たようなもんだって、前に自分で言ってなかったっけ?
"近しくはあっても、厳密には別物なの! だから現に、アスタロトと対立してアンタの魂を取り合ってるじゃないの。"
そうか。でも、魂の争奪戦ってことで言えば、お袋が提案した「魂の数万年レンタル」は俺の魂を事実上放棄したのと同じにならない? もしそうなら、そもそもお袋はなんで今アスタロトと争ってるの、ってな話になるけど。
"人間の時間感覚だと、確かに「数万年レンタル」なんて「永久貸与」と同じ意味になるかもね。でも不老不死の神や悪魔にとっては、永劫に近しい時を経ても必ず手もとに返ってくるなら「放棄」とは言わないの。その上で、私たちの方は、貸与の期限が来たら素直に返還するとはまだ決めていないし、返還せずに済むような何がしかの謀りごとを期限までにめぐらせればいいと考えてる。なんせ「数万年」もの時間かせぎができるわけだからね。一方、アンタの母親は私たちのそんな思惑なんて見越した上で、その時が来たら私たちを謀略ごと蹴散らせばいいと考えてる。そういう意味で、今回は(腹に一物ある)両者の利害が見事に一致したのよ。まあ正直、「ラスボス」としてアンタの母親と決死の覚悟で対峙するのに比べたら、一時的にせよ労せずしてアンタの魂を数万年間所有できるわけだから、私たちにとっては実に「お得」な取引だったってことよ。"