2013年2月
えーっと、また転職したいって話なんだけど……
“いいわよ、しなさい。”
うわっ、即答だ。いつもだったら、こっちの事情はわかってるくせに長々と状況説明させて、散々もったいつけてからでないと何も答えてくれないのに、今回は転職する理由もどこに転職するかも聞かないで一発OKとかどういう風の吹き回し?
“言い方が引っかかるけど、まあいいわ。それは、アンタが本気で迷ってるからよ。というか、今はどっちかというとその「転職」を断る方向に気持ちが傾きかけてるでしょう? でも駄目よ、この話は絶対断っちゃ駄目。なぜなら、もう二度とない千載一遇のチャンスだから。”
そうなの? つーか、てっきり「こないだ再就職したばっかなのに、また辞めるんかい!」って怒られると思ってたわ。なんなん?そこまで良い話なの?
“後でちゃんと教えてあげるから、アンタはそろそろ状況説明しなさい。”
ああ。まあ、何というか、別に今の会社に不満があるわけじゃないんだ。それどころか、むしろ給料や待遇の面ではかなり良くしてもらってると思ってる。ただ、前にも言ったけど今の会社はちょっとレベルが高すぎて、正直俺の実力ではついて行くのがやっとなんだ。それでも今までは何とか騙し騙しやってこれたけど、それもだんだん限界が近づいてきた。その証拠に、入社した当時から上司には怒られ通しではあったものの、最近は叱責の強さのレベルが1段も2段も上がってきた。でも、それを単に耐えれば良いっていう話だったら俺も転職までは考えなかったろう。これはそういう話じゃなく、そんな体たらくだから、そのうち仕事で何か致命的なミスをやらかして会社に取り返しのつかない損害を与えるんじゃないかっていう予感が最近とみにするようになった。それが辞めようと思った最初のきっかけだ。ようするに、自分のしくじりで多大な迷惑をかけてしまう前に、もっと(給料の面でも待遇の面でも)身の丈に合った会社に早く移るべきだって考えたわけ。なぜなら、なんといっても今の会社は再就職で行き場のなかった俺を拾ってくれたところだし、日本経政総研なんかと違って多大な恩義を感じているから。
そんなワケで再び転職サイトに登録し、連絡のあった企業とメッセージを何回かやり取りしてから面接受けに行ったり(もちろん業務の時間外に)みたいな就職活動をしながら、同時に、東大関係や日本経政総研関係でまだ付き合いのある人らにも機会があれば「転職先探してる」って伝えて回った。そしたら、その中の1人から「DBCが統計分析できる人探してるよ」って話が舞い込んできた。といっても、DBCといえば全国ネットを束ねる在京テレビ局だから、「だとしても俺には関係のない話だ」と最初は思ってた。だって、どう考えたって俺のレベルで採用される会社じゃないから。ところが、思いがけず先方が(知り合いを通じて)「会いたい」って言ってきたので半信半疑で会いに行ってみたら、彼らは彼らで「やむにやまれぬ」事情があるようだった。先方の話によると、これまで報道部で世論調査を一手に担っていた社員が突然ライバル局に引き抜かれたそうだ。その人が退職するのは年度末の3月だが、このままだとさっそく4月から調査ができない事態に陥ってしまうそうだ。だからぶっちゃけ、もはや先方としては「統計分析ができる奴なら誰でもいい」っていう心理状態なんだろう。なるほど、それなら俺に話が来たのもうなづける。
“ちょっと待ちなさい、DBCの話を持ってきた人の話をサラっと流したわね。そこもちゃんと説明しなさい。”
ちゃんとも何も……東大関係の人だよ。困ったDBCが西武大の教授に泣きついて、その教授が東大の広瀬教授に相談したら俺の名前が挙がって、俺は今も広瀬教授がやってる経営戦略研究会に出てるから、その時に研究会の事務局の人が声をかけてきたって感じ。
“ほらごらんなさい、私の言った通りになったでしょう?”
なにが?
“アンタが広瀬教授との共同研究について初めて相談に来た時、いつかアンタが進退きわまったら「救い」に導いてくれる「運命の人」だから大事にしろって私が言ったでしょうが!!”
ああ、アレってこういう意味だったのか! 俺が「引きこもり」だった時期もなぜか教授の研究会には出てたから、我ながら「なんで出てんだろう」って不思議に思ってたけど……そうか、こうなるための伏線だったのか。
“私の言うことを聞いててよかったでしょう?”
んー、研究会に出てたのはタダの惰性だけどなあ。辞めるためには「退会」手続きとかがあったし、広瀬教授にもお詫びと挨拶に行かなきゃいけないから、ひたすらそれが面倒だったってだけで……あ、イヤイヤ、うん。そうだな、たぶん心のどっかでお前の助言が気になってたんだろう。
“私が怒りそうだったから急に取りつくろうとしただろ、バレバレなんだよ。で、それで? ここまでの話じゃ「転職」を断らなきゃいけない理由が見えてこないんだけど。”
ああそれな。今の会社の上司に「辞める」って報告したらメッチャクチャ怒られたんだよ。今までで一番激しい怒られ方だったと思う。いやー、マジで怖かった。
“まさか、それが転職を止めようって考えてる原因じゃないでしょうね?”
さすがにそこまでヘタレじゃないよ。そのときにさ、上司に言われたことが正直心に刺さったんだ。上司によると、最近ようやく俺は「稼げる」ようになってきたらしい。仕事のミスも減ってきて、客先の評判もすこぶる良い。だから去年の下期に昇給させたし、今後は自分がやってきた重要な仕事を任せたいと思っている。そのぐらい今は「順風満帆」なのに、ここで辞める理由がわからない。ただ純粋に、「もったいない」と。
“またずいぶんな高評価ね。アンタ自分で実力不足の「お荷物社員」って言ってたじゃないの。”
だろー? 俺もビックリしたよ。自己評価とあまりに真逆すぎてさ。そんで、この会社なら俺はもっと成長できる、この会社がもっと大きくなるためにも俺の力が是非とも必要だって言われた。それに比べて、テレビ業界はすでに成熟産業だから、こう言っちゃ悪いけどもう「伸びしろ」がない。だから自分のキャリアにとってどっちが本当にプラスなのか、もう一度だけよく考えてみてほしいって。
“それ、真に受けてるの? 私には、辞めようとする部下を引きとめるときに上司が言いがちな常套句にしか聞こえないけど。”
かもな。でも、上司に言われたことで気づいたんだ。今の会社は確かに小さくて名前も売れてないけど、業務の性格上、最先端の統計理論と最新の統計ソフトを使って仕事をすることができる。でも、テレビの世論調査ってのは基本「電話をかけて回答を聞いて集計する」だけだからな。当然、「最先端」や「最新」とは無縁の世界だ。そういう業界に移るってことは、キャリア的には「研究者」として「終わる」ってことを意味する。ようは上司の言う通り、将来の「伸びしろ」がないんだ。
“だから迷ってるのね。で、家族は何って言ってるの?”
お袋は、たぶんまだ正確に事態を把握してない。電話で話した時、DBCのことを九州ローカル局のQBCと勘違いして「夫婦でこっちに帰って来るんね?」とか言ってたからな。レッドは、ずっと「ゴロウのしたいようにすればいい」みたいな物分かりが良いこと言ってたけど、こないだ俺が晩飯食いながら「したいようにって言うなら、転職やめて今の会社に残る"線"もだいぶ出てきたけど?」って言ったら、しばらく茶碗と箸を持ってうつむいたあと、「やっぱ、DBCに行ってほしい……」ってボソっとつぶやきやがった(笑)
“じゃあ、その通りにしたげなさいよ(笑) せっかく勇気出して本音を言ったんだから。”
まあなぁ、そうなんだけど……うーん、何かもう一押し、背中を押してくれる決定打があればなあ。
“じゃあ、言ったげる。もし今の会社に留まるって選択をすれば、アンタ死ぬわよ。”
…………え、また?
“……! ああ、違う違う! 今度のはアスタロトの攻撃じゃないわ、純粋に「ストレス」が原因よ。少し前から、右半身が軽くしびれたような状態がずっと続いてるでしょ?”
ああ、うん。
“たぶん自覚ないだろうけど、今の上司や同僚のレベルについて行くのにアンタだいぶ無理をしてるのよ。それがストレスとなって身体にガタが来はじめてるの。半身のしびれはそのサインよ。このまま放っておけば、近い将来必ず糖尿病かガンか心臓病を発症するわ。どれになっても生き死にかかわる大きな病気よ。それに、今のところはまだアスタロトは関与してきてないけど、もし発症すれば奴はチャンスと見て即座に攻撃を仕掛けてくるわよ。そういう意味じゃ、健康面でも決して隙を見せちゃいけないの。”
あーそっかぁ、死ぬのかあ。
まあ死ぬんじゃしょうがないよな。じゃあ、転職すっか。
“そうね。でもアンタ、今回は本当に頑張ったと思うわよ。まさかアタシも、3年前まで「引きこもり」だったヤツが身体を壊すまで働くなんて思ってもみなかったわ。まあ、その極端さが若干腹立たしくもあるけどね。とにかく、これからはもう少し身体を労りなさいよ、レッドのためにもね。”
了解。