2005年8月(8)
蒲田のウィークリーマンションで修羅場になったときに兄貴たちが「お袋が九州に帰るまでにもう1回だけ会ってほしい」と食い下がってきた件だが、お袋が結局折れたので、東京を発つ最終日に東京駅近辺で一緒にランチをとることになった。これがなければ帰りもお袋を品川駅から新幹線に乗せるつもりだったんだが、兄貴の強い希望で待ち合わせ場所が東京駅に変更になり、それに合わせて新幹線のチケットも東京駅発に変更しなきゃならなくなった。もちろん俺も「そっちが品川に来い」と強く主張したが、兄貴が「明日は休日だけど俺は仕事があって、途中抜け出してくるけど品川駅だと会社からちょっと遠いし、それだと俺は少しの間しかお袋に会えなくなるから……」とかゴネまくって、結局お袋が「切符を買い直すお金は私が出すけん言う通りにしちゃり」とまで言うもんだから俺も折れざるをえなかった。ちなみに、チケットの乗車駅を品川→東京に変更するのに追加料金はかからなかった。
前日はお袋にとって東京最後の夜だし、独りで過ごさせるのも何なので俺がウィークリーマンションに泊まることになった。というか、そうするようレッドに諭された。そのレッドは、翌朝お袋を見送るため自宅から直接東京駅に来ることになっている。で、最終日の朝もやっぱりお袋の炊事の音で5時ごろ起こされた。朝飯を食った後はお袋が部屋の掃除と荷造りを始めて、結局また、出発予定の何時間も前にやることが全部なくなってしまい2人してぼーっとテレビを眺めて過ごすことになった。とはいってもお袋は、実家の近所で最近起きた些細なトラブルとか、犬を散歩させる道に生えてた野草が食える種類だったとか、親父が生きてたころの昔話とかを切れ目なく終始しゃべり続けてたので、その時テレビでどんな内容の番組をやってたのかは全く覚えていない。そうこうしているうちに出発時間となり、退去時の注意事項が書いてある用紙に目を通して「確認済み」のチェックマークを入れ、俺の名前で署名してから入口にあるポストに鍵と一緒に投函した。これで退去手続きは完了、ということで一緒に蒲田駅に行き、京浜東北線でレッドが待つ東京駅へと向かった。
ところが、約束の時間に東京駅に着いたのに待ち合わせ場所にレッドがいない。携帯に電話しても出ないので、携帯メールで「いまどこ?」と送ったら「少し遅れる」とのこと。どうせ寝過ごしたんだろうと思ったが、しかしヤツの寝坊癖ぐらいはもはや想定内なので、俺はあらかじめ兄貴達と会う時間をレッドと合流する1時間後に(レッドには知らせず)設定しておいた。なので慌てる必要もなく、駅構内のカフェでお袋とゆっくり待つことにした。10分ぐらい経ったころ焦ったレッドが駆けつけてきたが、手に紙袋を下げている。聞くと、お袋への手土産に芋ようかんを買ってきたのだという。ただ、その芋ようかんが開店後すぐに売り切れる人気商品だったため朝一で買いに行ったのだが、店に並ぶ行列が思ったよりも長かったので待ち合わせ時間に遅れてしまったのだそうだ。無添加で特に傷みやすい食品なので消費期限が1日と非常に短く、そのため今朝買うしかなかったらしい。それでも味は絶品なので、どうしても帰りの新幹線でお袋に食べてもらいたかったんだと。なーんだ、そーゆーことだったのか……とか思ってると、お袋が俺に「ほらごらん、ミサちゃんが寝坊なんかするわけないやろ!」などと余計なことを言った。この件については家に帰ってからミサちゃん(レッド)と少しモメたんだが、それはまた別の話。
しばらくカフェで時間をつぶして、兄貴たちと会う約束をしていた丸の内口改札前の広場に移動したが、時間を過ぎても兄貴たちは現れなかった。まあ、これもある程度予想がついた展開ではあった。立ちっぱではお袋も疲れるので、俺だけここに残って、レッドにはどこか休めるとこへお袋を連れて行ってもらおうかと考えているところにようやく兄貴一家がやって来た。そう、兄貴「夫婦」ではなく「一家」が。つまり、兄貴の子どもらも一緒だったということだ。こないだの蒲田でのこともあるし、お袋も正直孫と会えるとは期待してなかっただろうから、この時は本当に嬉しそうだった。すぐに「バアバ」の顔になって、孫たちとお話をし始めた。ところが、子どもらの方は若干引き気味で反応が硬い。兄貴によると電話ではいつも嬉々として「バアバ」と話してるそうなのだが、いざ現物が目の前に現れると、このお婆さんとあの「バアバ」が瞬時には結びつかず戸惑ってしまったんだろう。それでも小学校低学年の「お兄ちゃん」の方はまだ頑張ってお袋と会話しようとしているが、保育園児の弟の方は母親の後ろに隠れて時たま必要最小限の言葉をお袋に投げかけるだけだ。ところが、お袋の方はそんな様子を一向に気にしている風ではない。弟の方にも「あらー、照れとるんやねぇ」とか何とか言いながら目尻を下げっぱなしだった。そんな彼らを尻目に、兄貴夫婦と俺たちは簡単に挨拶を交わした。こないだの般若のような形相が嘘だったかのように嫁さんは礼儀正しく「おしとやか」に振る舞っていたが、昼の日の下で白い化粧がハレーション気味になって能面みたいな顔がさらに不気味さを増していた。
その後、本日の主目的であるランチがとれる店を探したが、これがまた難航した。なにせ子どもらも含めて7人の大所帯になったわけで、加えて休日だったせいもあり、繁華街ではなかなか皆で入れる店が見つからなかったのだ。その上、やっと入れそうな店が見つかっても兄貴が何かと難癖をつけた。例えば、うなぎ専門店なら人数分の席が空いていたが、兄貴が「うなぎはダメだ」と却下した。理由を聞いたら「子どもたちが食べられないから」と言う。いや、知らんがな。それにいくら専門店だって天ぷらとか、うなぎ以外の料理だって普通にあるよ。いやいやいや、そうじゃない。そういうことじゃない。そもそも今日の主役はお袋だろう。何でお宅の子どもらの都合が最優先なんだよ? ていうか、東京駅近辺でランチをすることになったのもお前の都合なんだから、本来ならお前が店を探して予約しておくのがスジだろうが!とぶち切れかけたが、お袋や子どもらがいる前で雰囲気を悪くしたくはなかったので何とか我慢した。しかし、その後はアレコレ言ってくる兄貴を無視して黙々と店を探した。その時の俺は、たとえ黙っていようともあからさまに怒気を放っていたと思うんだが、信じられないことに、兄貴はそういうのを全く気にせず普通に話しかけてきた。そういうところに、俺は、何だかお袋と共通するものを感じてしまう。おそらくこれは、レッドなんかにはわかってもらえない感覚だと思う。レッドならたぶん「お母さんのは相手の良いところだけを見てあげようっていうやさしさ、お兄さんのは自己中心主義で他人が見えてないってだけの冷たさだから全然違う」などと主張するだろう。確かに、そういう意味での違いならあるかもしれない。でも、だとしても普通の人間なら、見たくもない「相手の悪いところ」がどうしても目についてしまうし、たとえ「自己中」であっても他者がぶつけてくる要求や感情を完全に無視するなんてしたくたってできるもんじゃない。でも、あの2人はベクトルこそ違えど、自分が見たくないものは特に意図しなくとも全く「見えない」という点は共通している。俺には、その徹底ぶりがどうにも人間離れしているように感じられて正直気味が悪い。