2005年8月(4)
それから皆で繁華街の方向に少し歩き、前もって俺が予約したアーケード商店街の中華レストランに入った。何を食ったかはあんまり覚えていないが、中華の会食でよくあるような、料理を大皿で頼んで皆で取り分けるスタイルじゃなく1人1品ずつ頼んだのを覚えている。そうなったのは兄貴の発案で、「大皿だと取り分ける手間で久美(兄貴の嫁さん)やミサコさんを煩わせるから」という理由だった。「いや、それぞれが自分で取ればいいだろ」とは思ったが、俺自身が同席者の好みとかをいちいち気にして注文するのが面倒だったのであえて異は唱えなかった。
料理を待つ間、兄貴の嫁さんが子どもの話をしだした。このメンツでは振るべき話題も見つけられなかったので、話の口火を切ってくれたことには感謝した。ただ、嫁さんが話すのは塾や習い事の月謝、学用品がいかに高額かというカネの話と、PTA活動(上の子)や保育所の送り迎え(下の子)でいかに自分の負担が大きいかという話に終始してて、お袋はウンウンと一応相づちをうって聞いてるものの明らかに受け流していた。本当は孫の最近の様子とか、「バアバ」のことをいつも何て言ってるかなんてのを聞きたかったんだろう。レッドは……と視線を移すと、お袋とシンクロするかのようにウンウンと相づちをうって聞き流していた。料理が来ると兄貴は自分の妻の話に関心をなくしたのか、食いながら俺に仕事の話をしてきた。といっても、世界的な重工業会社の管理職とシンクタンクの研究員じゃ「仕事」といっても何の共通点もないので、そのうち業務システムで使ってるOSとかコンピュータ言語みたいな、かろうじて俺でもわかる話題にシフトしていった。それから男達は男同士で、女達は女同士で別々の話題で会話を続けた。
食事が終わって店を出たところで、とりあえず今日は解散かなと思っていたら、兄貴がお袋に「相談したいことがある」と切り出した。お袋はあまり乗り気でない様子だったが、「どうしても」という兄貴の態度に結局押し切られた。話をするためにお袋が泊まってるウィークリーマンションに兄貴夫婦がこれから行くことになったが、お袋が俺らの方を見て助けを請うように「ゴロウとミサちゃんにも来てもらってええ?」と言うと、「もちろん。今日はゴロウ達にも同席してほしい」と兄貴は応じた。
マンションの部屋に着くと、レッドは台所の流しに立って人数分のお茶を淹れはじめた(家じゃそんなことしないくせに)。残りのメンツは、とりあえず座卓を囲んで皆がカーペットの上に座った。隣同士で座った兄貴と嫁さんは何ごとかアイコンタクトをとっていたが、やがて兄貴が意を決したように「今度、マンションを買おうと思っている」と言った。ちょうどそのころレッドが配ったお茶がいき渡った。お袋は「そうね?」とだけ言ったが、続けて兄貴は「頭金として800万円が必要」「そのうち300万を妻の両親から援助してもらうことになっている」「ついてはお袋にも同程度かそれ以上の援助を頼みたい」といったようなことを、まあまあの早口で喋った。それに対するお袋の答えは、NOだった。
お袋の言い分としては、「パートで細々と暮らしてる身でとてもそんな余裕は無い」「そもそもなぜ親の援助がないと買えないほどの家を欲しがるのか」「今まで何の相談もなくいきなり金の無心とはどういうことか」という感じだった。確かに、世間一般の常識で考えればパート暮らしのおばちゃんに数百万円出せというのはいくらなんでも無茶ってもんだが、俺には兄貴がそんな要求をした理由が薄々わかった。たぶん兄貴は、お袋にそれなりの蓄えがあると踏んでいるのだ。ウチの親父は道路を横断している最中にトラックに轢かれて亡くなったが、そのとき加害者側の会社から賠償金と慰謝料が支払われた。また、それとは別に保険会社から死亡保険金もおりている。どれも受け取り人はお袋だったので、兄貴はそれをアテにしてるんだろう。お袋もそれを感じ取ってか、「あんた私がよっぽど金持っとるって思いよるかもしれんけど、お父さんの時のお金はもうほとんど残っとらんとよ?」「あの人の前の嫁はんの子どもにも相続分を払わんといけんかったし、家のガタがきたトコを直してローンの残りを支払ろうたらもう幾らも残らんやったわ」と自分から言い出した。だが、兄貴はそれに直接は答えず「いやそうじゃなくて、どうもお袋の方に俺らに対する誤解があると思うんよ」と言った。
「誤解? 誤解っちゃ何ね? 一体何の話ね?」
「ゴロウのトコに対する態度と、ウチに対する態度がちょっと違うんやないかって話よ。」
「なんも違わんよ。あんたんトコには今までも散々してやったやないの。子ども達にはお年玉とか入学祝いとかもいつも送ってやりよるやん!」
「そういう小さな話じゃなくて、ゴロウさん名義でお義母さんが定期預金してたりとか、そういう話です。しかもそれだけじゃなくて、お義母さんの生命保険の受け取り人も最近邦章さん(兄貴のこと)からゴロウさんに変えたって聞いて……」
と、いきなり兄貴の嫁さんが話に割り込んできた。お袋はギョッとして、
「なんで知っとると!? 私あんた達にそんなこと話しとらんよ!」
と声を荒げたが、兄貴も嫁さんも何も答えなかった。ちなみに、定期預金だの生命保険だのの話は俺もこのとき初耳だった。あとでわかったことだが、地元でウチ担当の保険外交員が兄貴に「受け取り人変更の件は承知しているか」と確認の電話を入れたことでバレたらしい。お袋はそれがわかると「なぜ余計なことを言ったのか」と外交員に抗議したが、「だって長男さんだから……」と言われたそうだ。よくわからんが、「長男=跡取りなんだから家のことは何でも話して当たり前」みたいな感覚だろうか。まあ、田舎の人間は今でもそんなモンだ。
「なんでゴロウさんは定期預金や生命保険を受け取れるのに、邦章さんは頭金を援助してもらえないのかなって……それは、きっと私に至らない点があるからだと思うんです。だって邦章さん自身はお義母さんとの仲が決して悪いわけじゃないのに、だったら、私がもっとミサコさんみたいにお義母さんに好かれていれば、援助の話も前向きに考えてもらえてたんじゃないかなって。だから私、今日は私のどこが悪いのかよく話し合わないとと思って来たんです。」
「久美さん、それは違うよ? あんたたちには婚約のときに結納金も出したし、結婚式だって費用は半分私が出したやない。でもゴロウたちは、そんなこと今までいっぺんもしてやっとらんのやけ。それやのに、今回も全部自分たちがお金出して私を東京に呼んでくれたとよ。そやから、せめて少しでも残してやりたいって思うのは当然のことやないと?」
「でもゴロウさんは私立の高校に行ったから、公立に行った邦章さんよりたくさん学費を払ってもらってますよね?」
「いやあ、奨学金もらってくれたけん私立でもそんなにお金はかからんかったよ。それにゴロウはこの歳で改めて新社会人やろ? やけん、大卒で大企業に勤めた邦章ほどはお金も貯められんやろ。今の研究所だって契約期間があるっていう話やし、その後はどうなるかわからんのやけ私は先々が不安やもん。邦章は、これからも大丈夫って思うとるけん私は金も口も出さんとよ。それは堂々と胸張ってええ事よ? でもゴロウはこれからも心配やけ、本人は望んどらんかもしらんけど私がアレコレ余計な世話を陰で焼きよると。そこは頼むけん誤解せんどってね?」
兄貴夫婦の手前、なのかもしれないが、なんかお袋のやつ俺に対して普段思ってることをこの機に乗じて一気に吐き出そうとしてないか?と思った。兄貴の嫁さんはしばらく黙って何ごとか考えていたが、
「でも、私に不満があるのは本当ですよね?」
と最初の話を蒸し返した。するとお袋は、もう我慢の限界とばかりに声のトーンを上げて、
「そらあ、あんた私がお産の手伝いに行ったとき“お義母さん邪魔です、帰ってください”って言ったやない! 私、あの言葉忘れとらんよ!?」
とぶちまけた。それに嫁さんは全く怯む態度をみせず
「確かに言いました! 言いましたけど……!」
と言い返した。
……いや、本当に言ったんかい!と俺は思った。