2005年3月(1)
三波順一郎は本当に正真正銘のクズだった。しかも制御不能な暴れ馬タイプの……
去年の10月、奴が日本経政総研の理事長に就任すると俺はすぐに理事長付のサポート研究員に配属された。他にもう1人、同期の女性研究員(前にも言った「東大出なので論文の査読が一発で通った人」)も配属され、新人2人体制で三波を補佐することになった。最初の顔会わせの時、俺らが従事することになる「特別業務」の内容が理事長本人から告げられた。それは、「現政権の経済政策がいかに成功しているか」を証明する研究プロジェクトだという。「マジか……」と思った。だいたい、政策が成功してるかどうかなんてのは研究・分析してみてはじめてわかることで、それをやる前から「成功」と結論付けてるなんてのはもはや研究じゃない、イカサマだ。しかもイカサマの理由は見えみえだった。それは、三波が現内閣の特別参与でもあるからだ。つまりこの「研究モドキ」は奴が政府にゴマをするための道具で、それをウチの予算と人員(俺ら)を使ってやろうっていうんだから本当にロクでもない。
そういやそん時の話だけど、三波は自分の携帯を見せびらかして「僕が今電話を掛ければフリードマン(米国の高名な経済学者)本人が出る。なぜだかわかるか? それは僕がアメリカに行った時フリードマンの方から声をかけてきて『ミナミ、君はGreatだ』と絶賛したからだよ。いいか? 一流の人間とはこういうことだ」と言いながら携帯を胸にしまった。俺は「掛けんのかい!」と心中で突っ込みながらも大袈裟に驚いてみせた。同期の女性研究員(以下、「東大さん」とする)はいまいちピンと来ずノーリアクションだったので、この時点では俺の方が気に入られたようだった。しかしそれが良くなかった。それからしばらくの間、俺と東大さんは業績好調な大企業の取材に行かされたんだが、取材のとりまとめと理事長への報告は基本的に俺の「仕事」になってしまった。
で、取材してみた結果なんだけど、業績回復が「経済政策のおかげ」なんて言う企業は1つもなかった。どこもだいたい共通していたのは、デジタル家電など、当初失敗と思われてた事業が状況の変化でたまたま稼ぎ頭に化けた「怪我の功名」型、負債の整理やリストラを地道に続けた結果黒字体質に転換した「コツコツ節約型」、あとは海外の景気が好調なことの恩恵を受けた「外需型」のどれかだった。いずれにしても、現政権の政策のおかげで業績が向上したなんて言える要素はほとんどなかった。むしろ客観的に見れば、業績回復は100%企業自身の努力の結果としか言いようがなかった。もっとも、こうなってしまったのは俺らが取材した企業のほとんどが製造業だったせいもある。なぜなら、金融業や情報通信分野であれば、政府主導の不良債権処理や規制緩和が経営立て直しのきっかけになった例がいくつかあったからだ。でも、前も言ったようにウチは製造メーカーが共同で作らせた会社だから、相手企業の上層部にまで取材するとなると、会社同士の付き合いからどうしても取材先が製造業に偏らざるをえない。そういう意味では、「政府にゴマをする」研究をやる場としてウチは結果的に不向きだったってことだ。
しかし、そのまま理事長に報告するわけにもいかず、俺と東大さんはほとほと困り果てた。そこで2人して話し合って(東大さんは研究主幹にひいきされてたけど本人に罪はないと思ってたので関係は良好だった)、「現政権の自由競争を重視する方針が、国に頼ることなく企業が自力救済する姿勢を促した」という結論をデッチ上げた。それを俺の方でまとめて、中間報告書として理事長にメール提出した。すると、翌日俺の机の内線が鳴った。出ると事務スタッフの人が「理事長からです」と言うのでつないでもらったら、「なんだこの報告書は!!」といきなり怒鳴られた。それから三波はしばらくナニゴトかをがなり続けていたが、最後に、「俺の政府での立場をどうしてくれるんだー!?」と怒鳴って電話をブチ切った。俺は「そんなモン俺が知るかー!!」と思った。
翌日、東大さんと2人で理事長室に呼び出されて、昨日に比べると若干冷静なトーンで問い詰められた。まず、報告書の結論に至った根拠を聞かれたので、俺の方から、東大さんと議論した内容を説明した。全部をここに書くと長くなるので要約すると、
・企業への取材では政策の影響を示す直接的証言は得られなかった
・しかしこれまでは「護送船団方式」のように、業界全体が共同歩調をとるよう官公庁が指導することが多かった
・今回証言がなかったのは「護送船団方式」を脱したことの証拠ではないか
・これは現政権が自由競争を重視した影響と考えられる、
みたいな感じだったと思う。三波はそれを腕組みしながら目をつむってウン、ウンと聞いていたが、全部聞き終えて「わかった」と言ったあと、「だが、弱い」と続けた。曰く、「今回の景気回復に政府構造改革が与えた影響はそんな曖昧なものじゃない」「製造業の中にも、もっと構造改革の成果と言える事例があるはず」「それを見つけられなかったのは取材がまだ不十分ということだ」と。そして、「取材先を再吟味して最初からやり直すように」と言い渡され俺らは理事長室から追い出された。
しかし、実際に日本の名だたる大手製造企業の当事者から話を聞いた俺らからすると、「構造改革の成果と言える事例」なんてものが本当にあるとは思えなかった。それに再取材といわれても、取材できる会社はウチの経営幹部や大物研究員(政府の委員とか企業顧問やってる人ら)のツテで紹介してもらえるトコに限られるし、それもめぼしい企業はすでに取材してしまっていた。もちろん俺ら個人には、大企業に取材できるような人脈なんて何もない。要するに、改めて新規の取材先(しかも有望な)を探すなんてのが土台ムリなのだ。だもんで、東大さんはその日のうちに研究主幹に泣きついて、それからしばらく経ってからサポート研究員の任を解かれた。でもそれは論文掲載で一応最低限のポイントを稼いでる東大さんだから出来たことで、ポイントが足りない俺は逃げられなかった。というわけで、それ以降この「研究プロジェクト」の活動は低調となり、俺だけがたまに少ない成果を理事長に報告しに行ってはダメ出しされるというルーティンに陥って今に至る。
“で、今日はそれを「何とかして」って泣きつきに来たの?”
いや、そっちはいいんだ。ていうか、もうどうにもならん。たぶんあと3年ちょっとでクビになるだろうが、もーどうでもええわ。