歴史の不在証明(69)
しかし、資本主義や民主主義は国民の自意識が「近代的自我」として成熟しないと根付かない、という意味では前者が後者の必要条件になっているにもかかわらず、実は、資本主義や民主主義が要求するものと「近代的自我」のあり方には本質的な矛盾がある。近代において、資本主義の国々は「近代的自我」をホモ・エコノミクス(経済合理性に基づく行為者)の理想的な個人として、民主主義の国々は「近代的自我」をエンライテンド・ボーター(良識ある有権者)の理想的な個人として称揚してきた。その結果、国民は自らが至高の存在である(=自分の命にプラス無限大の価値がある)と認識するようになった。だがその一方で、民主主義は国家への忠誠を国民に要求し、ときには「死の選択肢」の実行を強いてきた(最も端的な例は戦争への参加要求)。またその際、資本主義における自由競争で敗れ、貧困に陥った者から順に「死の選択肢」の実行を強いられる(表向きは貧困から抜け出すため自発的に選択したことになっているが)といった「格差」や「不公平」も長らく黙認されてきた。そのような自己犠牲を強要する施策は、明らかに「近代的自我」を称揚する態度とは矛盾している。にもかかわらず、なぜそのような強要をするのか? それは、そうしないと近代国家の体制が維持できないからだ。そして、その矛盾は今もって解消されていない。では、なぜ解消できないのか? それは、その矛盾が近代国家の単なる不備ではなく、むしろ必要欠くべからざる本質だからだ。そこに、一部の唯物論者と無神論者らが必要以上に「自己」=「私」に執着し、「自己が消滅することへの恐怖」にとらわれすぎている原因の起点があるように筆者には思える。しかし本来なら、資本主義・民主主義と「近代的自我」の矛盾など少し考えれば誰にでもわかりそうなものである。なぜなら、もし国民を「至高」と崇めるばかりで甘やかし、命や財産を国に捧げるという「義務」を全く課していなかったなら、そもそも国家なぞ最初から成り立っていなかっただろうからだ。そのように、「近代的自我」とは矛盾をはらみつつも近代国家をかろうじて成立させるための社会的な方便にすぎなかったのだが、その一方で、それ自体が誰にとっても耳に心地よい、こう言ってよければ「自己肯定感」を満足させてくれるかなり魅力的な思想であったことに間違いはない。それが結果として、上で「少し考えれば誰でもわかる」と言った事実から目をそらさせることに貢献してきた(意図してか、せずしてか)。だからいつまでたっても国民の多くは「近代的自我」に疑問をもたず、そこから生じる「自己が消滅することへの恐怖」という「思い込み」からも抜け出すことができない。こうなるともう、「近代的自我」とは現代に生きる我々にかけられた「呪い」だと言わざるをえない。そして、その「呪い」に最も縛られているのが、おそらく「自己の消滅」を恐れる唯物論者や無神論者達なのだろう。
では、その「呪い」を解くには一体どうしたらよいのだろうか? 実は、それについては特に難しいことなどなく、ただ「近代的自我」がはらむ矛盾に気づくだけでよい。ここでいう唯物論者や無神論者にとっての「呪い」とは別に超自然的な力でも神の怒りでもなく、一般的には心理学的な暗示、中でも一般に「マインドコントロール」と呼ばれる類いのものである。「マインドコントロール」を解くのに最も有効は手段は、かかっている当人が自ら「おかしい」と気づくことだと言われている。そしていったん気づいてしまえば、「どうして今まであんなモノを信じ込んでいたのか……」と自分でも不思議に思う、洗脳が解ける時というのは得てしてそんなものである。実を言えばここまでの議論、すなわち唯物論者や無神論者を対象とした批判的考察の背景には、もし読者の中に「呪い」にかかった人がいるならその矛盾に気づく一助になれば、という思いもあった。
しかし現実の「マインドコントロール」でも、善意をもった誰かからいくら理論的に説得されても「気づき」を拒む人がいるように、本論を読んでもなお「近代的自我」を捨てきれないという読者もいることだろう。それについては、ひとえに本論の議論が説得力を持たなかった、すなわち筆者の力不足だったということで諦めざるをえないが、もし本論に(一部でも)同意して「近代的自我」を捨て去ることができたなら、かつての筆者と同様に、少なくとも「自己が消滅することへの恐怖」からは解放されるはずだ。そうなれば、あなたにとって「死への恐怖」を克服しようとする努力は、「近代的自我」の矛盾に由来する決して終わりの来ない苦行から、より良き生を全うするための糧へと変わるはずである。本論ではかつて “もしかしたら筆者はここで本論なりの「宗教」を確立しようとしているのかもしれない” と述べたが、それがもし今ここで論じているような「近代的自我からの解放」を教義とする、唯物論者や無神論者のために立ち上げられた宗教であるのなら、「より良き生を全うする糧へ」という変化は「ご利益」として上々とは言えまいか。もしそれに賛同できないとしても、「近代的自我」の思想的な延長上にある「人命は地球よりも重い」などという言説は、今を生きる我々の感覚からいっていくら何でも言い過ぎだとは思わないだろうか。それに、いくらそんな言説を信じたところで我々の命は全くそのようには扱われておらず、飢餓や戦争や心身の病等によっていとも簡単に日々浪費され続けているではないか。その齟齬=矛盾はあなたの心に「自己が消滅することへの恐怖」を生み、あなたの精神を絶え間なく蝕み続けていく。しかし、「近代的自我」を捨てさえすれば、あなたはその苦悩から解放されるのだ。本論で繰り返し説いてきたのはそのような「教え」である。
しかし、仮に「近代的自我」の放棄であなたや私といった個人が救われるとしても、一方で我々の社会に何か不都合が生じることはないのか、という点についても我々は考えておく必要があるだろう。上の議論において「近代的自我」の普及が資本主義と民主主義の前提となっていたことを考えると、「近代的自我」を捨てれば、一緒に資本主義と民主主義も捨て去ることになるだろう(※)。そうなると、はたして資本主義と民主主義を放棄しても「国家」は成り立つのか、という疑問をもつ読者もいるに違いない。その指摘に対しては、確かに、おそらく「近代国家」はもう成立しえないだろうと言わざるをえない。が、ただの「国家」であれば、おそらく存在しうると筆者は考えている。その最も強い根拠は、資本主義と民主主義が存在しなかった近代以前でも「国家」は確かに存在していた、という事実である。そして、前近代を生きた人々には、当時の文献や近代になって採取された彼らの証言を参照する限り、「自己が消滅することへの恐怖」に日々苛まれていたという様子はほぼ見られない(それ以外の「死」にまつわる恐怖については筆者同様に気に病んでいたかもしれないが)。その理由は、当時の彼らが「近代的自我」ではなく、「血統的自我(家族、肉親まで拡張された自我)」、「封建的自我(王や領主とその臣民を包括する自我)」、「社会的自我(地域共同体や国家にまで拡張された自我)」といった多様な自意識を持っていたため、「自身の肉体」が滅んでも「自己」=「私」は継続すると考えていたからだろう。したがって、前述したように “ありとあらゆるもの全てが「私」になり”、それによって個々人の「自我」が形成され、その集積が「国家」となるのだという前提に立つなら、そのような「国家」は当時(前近代)も今も十分に存在しうる。それだけでなく、「自己が消滅することへの恐怖」がない分だけ今の我々よりも幸福だとすらいえよう。
(※)ここでいう「資本主義」には、いわゆる「社会主義」も含まれる。なぜなら、筆者は「社会主義」も「資本主義」の「変種」、という言い方が悪ければ「進化型」だと考えているからである。よって、「資本主義」を捨てた後には「社会主義」も残らない。
その代わり前近代は、「近代国家」によって実現された、工業化による大量消費社会が不可能な体制であったので飢餓と(それを遠因とする)戦争からは逃れられなかった。しかし、近代の黎明期には「近代的自我たれ」と檄を飛ばしていた「国家」も、今は脱大量消費社会を目指していることもあってか、かつてほどは国民に「近代的自我」であることを求めなくなった。ならば、我々個人も前近代人のように「血統的自我」でも「封建的自我」でも「社会的自我」でも好きなものを選び「自己」=「私」とすれば良い。そして、そのように自己定義すれば自ずと自意識も変容し、「家族」や「地域」、「会社」や「組織」、「国家」などの全体を「私」と実感するようになる。そうなると、「自身の肉体」の死を思い描いてみても以前ほどは強く恐怖を感じていない自分に気づくはずだ。それに対し、「組織や国全体が自分だと感じるまでに自意識を変容させてしまったら、それはもはや自分としては別モノであり以前の自分との連続性は絶たれてしまう。したがって以前の自分は死んだに等しい」と反論する人もいるだろうが、(本論で繰り返し論証してきたように)その人の言う「以前の自分」=「自身の肉体に限定された自分」などは最初から存在しておらず、当人の主観的な「思い込み」あるいは「錯覚」にすぎないため、そもそも何も「死んだ」りなどしないから安心してほしいと伝えよう。いずれにせよ、大量消費・人口爆発社会の時代を乗り越えた我々には、再びそのような選択が可能となったのだ。だから、もうそろそろ皆「近代的自我」という重荷を下ろし楽になってもいいだろう。なお、そういう視点に立ってから、少なくとも日本の政治思想における「保守主義」が懐古的で「革新主義」が進歩的、といったステレオタイプな見方を筆者はしなくなった。
ところで、もちろん言うまでもなく、必ず前近代に戻らねばならないなどという道理はない。前述した「自然計算」の考えに 則って自意識を拡張し、かつて社会主義者が夢見た「地球市民」たるべく「地球的自我」を持っても良いだろうし、筆者個人に関していえば、本論でも述べたように「宇宙(Universe)」の「情報処理能力」に敬意(しかも最大限の!)を払っているので、自認するのは常に「宇宙的自我」でありたいと願っている。しかし残念ながら、「宇宙(Universe)」全体を「私」と実感するには知性も感性もほど遠い現状だと認めざるをえない。その境地に達するには、残りの人生すべてをかけて精進するより他はあるまい。
以上をもって、唯物論者や無神論者を対象とした批判的考察編を終了する。
なお、本論の前半と後半(批判的考察編)では意図的に議論の前提を変えていることについて、改めてここで注意を喚起しておきたい。本論の前半では、唯物論者や無神論者以外の人たち、すなわち神秘主義や特定宗教を信じる人々の主張や世界観が誤りであるという立場はとっていなかった。ちなみに、筆者自身は個人的な信条としても、彼らの言う通り死んだら「あの世」があり、そこに行けなければ「幽霊」として現世を徘徊する、という未来が待ち受けている可能性を必ずしも排除はしておらず、神秘主義や個々の宗教の教義についても今後さらに見識を深めたいと思っている。ただ、本論後半の批判的考察編では唯物論者や無神論者にフォーカスした議論となったため、その場限りにおいて「あの世」や「幽霊」、(人格神としての)「神」を否定する立場から考察をおこなった。もしその語り口に不快を感じた読者がおられたなら、ここで謝罪させていただく。
さて、批判的考察編に続き、[証明に対する注] と題した我ながらあまりにも長大にすぎる付論も、これをもってついに完結となる。そして、その付論を含む「歴史の不在証明」という作品も以上をもって連載を終了する。ただし、「歴史の不在証明」は「悪魔ちゃん」という作品全体において「理論編」というパートを構成する作中作品の一つであり、ここで終了するのはあくまでその「理論編」パートのみである。それ以外の、「本編」と題したストーリー・パートについては今しばらくの連載が続くので、願わくば引き続きのお付き合いを賜りたい。