歴史の不在証明(68)
ただこれらの恐怖は、今後筆者が精進することで、ゼロにはできないまでも低減はさせられると考えている。例えば「補償」が不十分となるリスクについては、それに関連する医学や法律、心理学といった分野をさらに「勉強」することで「補償」の不備を補う改善策を見つけられるだろう。また、「痛みや苦しみ」への本能的な恐怖心に対しては、もし生活に支障が出るほど亢進した場合は素直に精神科や心療内科を頼ろうと考えている。そこまでいかない場合は、精神修養の一貫として哲学や倫理学についての理解を深めてもいいし、学問としての仏教(宗学というらしい)や神学を学ぶのも有効だろう。そう考えると、筆者にとって「死への恐怖」を克服しようとする試みは、今後より良き生を全うすることにつながっていきそうに思える。
しかし、もし筆者に「自己が消滅することへの恐怖」があったならそうはいかなかっただろう。なぜなら、その場合どんな「補償」をしても「死への恐怖」が克服されることは永久にないからである。前述したように「自己」=「私」は「定義不完全性」をもつことから、「自己の消滅」といっても「何が消滅するのか」は全く明らかでない。にもかかわらず「補償」するということは、実際に「消滅」するのが何であれ、考えうる全てのケースに対して代償を用意するということである。しかし前述した “ありとあらゆるもの全てが「私」になりうる” という事実を考慮すれば、用意せねばならない代償の数は無限大となる。そのような「補償」を実行すると、上で議論したコンピュータ上の「情報処理」の例えでいう「無限ループ」(特定の処理が終了せず無限に繰り返されること)に必ず陥る。よって、「補償」が完了し「死への恐怖」が軽減もしくは無化されることは永久にない。以上のことから、「自己の消滅」について思い煩うことなど全くもって時間の無駄ということがわかる。
なので、そのような事態を避けるために本論では “そもそも消滅すべき「私」など最初から存在しない” ことを立証した。また補足的に、 “社会的な「有効性」の観点からみても、宇宙(この世の物質一般)の「情報処理能力」と比較しても、人間(特に自分)の命に特段の価値などないこと” も明らかにした。これらの事実を総合すると、我々は次のような結論に至るのが相当と思われる。
「自己が消滅することへの恐怖」とは、実は根拠のない「思い込み」にすぎない。
にもかかわらず、筆者の周りの唯物論者や無神論者には、今もその「思い込み」から抜け出せない者が多くいる。本論におけるここまでの考察は決して難解とはいえず、また、虚心坦懐に唯物論と無神論の立場から物事を突き詰めれば自然と行き着く結論であろうにもかかわらずだ。前に「コピー」機能に関して、コンピュータ内で処理される3つのプロセスの実行時間は我々の体感だと一瞬だ(「コピー」機能を選択するのと同時に完了している)という話をした。この「コピー」機能を「私」に対応づけるなら、ユーザーが操作するパソコンに相当するのは「社会」や「宇宙(この世の物質一般)」といった、「私」を包摂する全体集合であろう。もし我々が日頃操作するパソコンに意識があれば、「コピー」機能が突然「私は死にたくない(実行終了したくない)!」と言い出したら面食らうだろうが、なにせ実行時間(「コピー」機能の一生)は一瞬なので、気づいた時には「コピー」機能の実行に使用されていたリソース(計算能力やメモリ、消費電力)はすでに解放され、「貼り付け」機能のような別の機能に再割り当てされた後だろう。そして、さっきまで「コピー」機能(の一部として)自己主張していたリソースが、今度は「貼り付け」機能として「私は死にたくない!」と騒ぎ出す。「私」の全体集合たる「社会」や「宇宙(この世の物質一般)」から見れば、「自己が消滅することへの恐怖」にとらわれた唯物論者と無神論者がしているのはそういうことである。それは正直滑稽ではあるが、なぜ彼らがそこまで非論理的な態度をとり続けるのかを考えると笑ってばかりもいられない。
上でとりあげた、我が子をかばって死ぬ親や死の危険がある任務に就く海上保安官のような事例は彼らも知っているであろうし、自身も同じ立場になったら同様の行動をとる可能性を否定しないだろう。つまり、「私」の範囲が「自身の肉体」から外部(「家族(血統)」や「国(社会)」)にまで拡張する事実を彼らも認めているのだ。ならば、たとえ「死」して「自身の肉体」が滅んでも「私」(の一部)は残り継続することを理解できるはずだ。しかし、最後の最後にはいつも “「自身の肉体」が滅べば「自己」=「私」が無くなってしまう~” と怯える立ち位置に戻ってしまう。普段の彼らがおおむね客観的かつ合理的に判断していることを考えると、実は、この件に対する彼らの態度はかなり奇妙といえる。しかしここで、「自己」=「私」の概念に関し彼らがかなり特殊な定義を意識下に刷り込まれているのだとすれば、彼らの奇妙な態度にもだいたいの説明がつく。では、その「特殊な定義」とは一体何か? それは、前にも本論で言及した「近代的自我」である。
前にも説明したように、「近代的自我」は、資本主義を支える消費の1単位として、また民主主義を支える投票の1単位として一定の財力と知力を持った均一な個人を確立するために、近代になって普及した「自己」の定義である。当時そのような定義を必要とした背景には、近代以前、どの国も絶えず飢饉や戦争によって滅亡の危機にさらされていたという事情がある。二度とそのような危機にあわないためには、国家の版図(領土)と個体数(人口)を民族単位で統合された規模にまで拡大させる必要があった。そのためにはまず、重化学工業による大量生産をベースとした産業構造への転換が急務であり、またそれは資本主義と民主主義による統治が前提であった。したがって、その統治を実現するため「近代的自我」の普及が国家による一律の教育によってなされたのである。ただ問題は、国家がこの定義によって「自身の自由意志だけに従い経済活動(投資、労働、消費)する個人」の誕生を企図したため、思想体系上「個人」が至上の価値をもつとされたことであった。その結果として「我思うゆえに我あり」や「自己本位」が是とされ、“「私」とは「この肉体」のみに偏在する” という認識が万人に共有された。しかし今や、さらなる版図拡大が可能な土地はもう地球上に残っておらず、人口も先進国を先頭に、経済発展をとげた国から世界全体で減少に転じつつある。もちろん重化学工業中心の産業構造からはすでにほとんどの国が脱却済みである。ともなれば、もはや「近代的自我」が時代遅れなことは歴然である。しかし幼少時から教育によって徹底的に「近代的自我」を刷り込まれ、しかもその分野では近代以降明確なパラダイムシフト(価値観の転換)が起きなかったため、いまだに多くの人が認識をアップデートできずにいる。特に、資本主義と民主主義の信奉者にそのような傾向が強いように思われる。