歴史の不在証明(66)
そのような視点で見ると、自然界、すなわち宇宙は途方もなく巨大な情報処理装置なのではないかと思えてくる。一部の物理学者に支持されている「デジタル物理学」(https://ja.wikipedia.org/wiki/デジタル物理学 を参照)は、まさにそのような理論である。ただし、「理論」とはいっても今のところ「物理学上の予想」なので(※)、当然ながら懐疑的な研究者もおり批判されている。批判の主旨はもっぱら「宇宙には計算不可能な要素もどこかにあるはず」というものだが、この表現は、どう考えても「明確に計算不可能な要素はまだ見つかっていないが……」という事実を前提とした言い回しである。つまり、批判者ですら「既知(解明済み)の宇宙は全て計算可能である」という事実を認めているのだ。そもそも、そうでなければ現在観測されている宇宙の姿が数学的に導かれた物理学の結果とほぼ一致する、また、それだけでなく数十年前に数式上で予言されただけの「重力波」や「ニュートリノ振動」の存在が観測で裏付けられる、などということが起きるはずがない。
(※)物理学の理論には、主流派の中にも「大統一理論」や「ダークマター仮説」、「陽子崩壊」のような「予想」が数多く存在する。それらはいずれも一定の根拠をもって主張されているので、「予想」だからといって信頼性にとぼしい「空論」というわけではない。
ここで「時間計算量」の話に戻ろう。上の「既知(解明済み)の宇宙は全て計算可能である」が事実として、その「時間計算量」は一体どのくらいの大きさになるだろうか。それについては、正確な数値を求めようとすると、「人間の脳を中心とした神経系」の場合と同様に、「計算」に「必要な手順数」をどうやって計測するのかという難題が立ちはだかる。しかし、それでも一つだけ確実に言えることがある。それは、“「既知(解明済み)の宇宙」の「時間計算量」は「人間の脳を中心とした神経系」の「時間計算量」よりも絶対的に大きい” ということである。なぜなら、科学的姿勢を信条とする唯物論者や無神論者にとって、「既知(解明済み)の宇宙」も「人間の脳を中心とした神経系」も物質(の集合)で構成されていることに違いはなく、その物質による機械的な働きによって「情報処理」=「自然計算」が実現されているからだ。したがって、「情報処理」の計算リソース(資源)は構成物質(「宇宙」や「神経系」)そのものであり、リソースが多ければ多いほど計算可能な量(「時間計算量」)も増えるのは自明である。ならば、重量にしてわずか1~2kgの「人間の脳を中心とした神経系」の「時間計算量」などは、少なく見積もっても10の50乗(1,000,000,・・・,000と続く50桁の巨大な数字)kg以上といわれる「既知(解明済み)の宇宙」の「時間計算量」に比べると近似的にゼロとみなせるほど極小ということになる。
さて、ここまでの議論において、唯物論者や無神論者らは「知性」(≒「情報処理能力」≒「時間計算量」)が自らの価値の「源泉」だと考えていた。そのような、「知性こそ価値の源」という彼らの基準に則るなら、人間の「知性」など無視できるほどに巨大な「知性」をもつ「既知の宇宙(Universe)」こそが、この世で最も価値ある存在ということになる。ならば、その構成物に対し「石ころや棒きれのようなくだらないモノ」などという、傲岸不遜な認識は即刻改めるべきだろう。そもそも、「唯物論者」を名乗っておきながら「自己」=「私」のみを偏重して「物質」を軽んじるとは一体どういうつもりなのか。もちろん、だからといって既存宗教に倣い伏し拝めと言っているのではない。せめて、「宇宙(Universe)」に対し最小限の「敬意」ぐらい払えと言っているのだ。その上で、自身の「知性」に誇りをもち「命」も大切にするというのなら、何ら非難されるべきことはない。
それでも、(1)“「宇宙」に知性があるなど信じられない”、(2)“「私」が存在しないという本論の結論に納得できない”、(3)“誰が何と言おうと、自分はやっぱり死ぬのが恐い”といった異論は、まだ一部の読者の中にくすぶっているかもしれない。それらは「反論」というより「不服」の類いであろうが、いずれにせよ一つずつ解決を試みよう。
まず、(1)“「宇宙」に知性があるなど信じられない” について。この異論の根拠としては、“「宇宙」に知性があるなら我々と意思疎通が可能なはず。にもかかわらず、「宇宙」の「意思」を汲み取った人など今までおらず、「宇宙」の方から我々に話しかけてきた(何らかの形でコミュニケーションをとってきた)という事実もない” といった主旨がもっとも一般的だろうか。しかし、「知性があるなら我々と意思疎通が可能なはず」というのがそもそもダウトである。先述したように、現在の生物学ではサルからウイルスまで何らかの「知性」があることを認めているが、だからといってサルやウイルスと人間との間で意思疎通が可能などとは誰も言っていない。これについては、実験や観察による人間の接触をサルやウイルスが「何らかのコミュニケーション」として認識しているか、という問題を考えてみればよい。おそらくサルは、「エサをくれる」「監視している」ぐらいは認識しているだろうが、それを「コミュニケーション」として認識しているかは疑わしい。ウイルスにいたっては、人間の存在すら感知できていないだろう。本論においては知性のレベルにおいて圧倒的に「宇宙」>「人間」なので、上の例えだと我々人類が「サルやウイルス」の立場になる。だとすると、例え「宇宙」が「話しかけて」きても我々は気づかない可能性が高い。つまり、あまりに知的レベルが違いすぎると、高知性体からの接触を低知性体は認知できない可能性があるということだ。これは、いつか起こるかもしれない異星人との接触でも生じかねない問題として科学者の間では周知されている。
また、そもそも「宇宙」の側に我々と意思疎通するための動機があるか、という問題もある。我々人類が「情報処理」を行う目的(意思)は、究極的に突き詰めると「生殖(自己増殖)による版図拡大」と「知的好奇心の追求」の2つだと考えられる。一方、「宇宙」が行う「情報処理」の目的がその2つでないことは、現在観測されている宇宙の挙動からも明らかだ。では何が目的なのかというと、筆者は「宇宙の円滑な運用」ではないかと考えている。先に紹介した「デジタル物理学」の派生型として「シミュレーション仮説」(https://ja.wikipedia.org/wiki/シミュレーション仮説 を参照)という理論があるが、その結論の一つは「我々の宇宙が、何らかの文明の作ったコンピュータシミュレーションのような仮想宇宙であるか、それともリアル宇宙であるかを、宇宙の内部に住む我々が判断する手立てはない」というものである。この仮説はいまだ証明されていないが、このような仮説の発想の源は、明らかに提唱者(科学者)が宇宙の物理現象をコンピュータでシミュレート(仮想実験)した時の経験からくるものだろう。ところで、現在我々がコンピュータ上で「仮想宇宙」をシミュレートする時、そのソフトウェアを設計した科学者やエンジニアは「仮想宇宙」の「創造者」だといえよう。その「創造者」の勤務体制であるが、実はシミュレーションを実行している間ほとんど休めない。なぜなら、大抵の研究用ソフトウェアには何らかの「バグ(不具合)」が潜んでいるので、それが引き起こすエラーの兆候をいち早く見つけるため常に「仮想宇宙」シミュレーションの実行状態を監視しなくてはならないからだ。もし首尾よく兆候を見つけられたら、「仮想宇宙」を停止せずに動かしながら不具合を修正することも可能だ。その結果、「仮想宇宙」はコンピュータの中で「誕生」から「終焉」までの一生を終えることができる。ところが、何度か現れる兆候全てを見落とした場合、「仮想宇宙」はどこかの時点で必ずエラーを起こし「突然死」する。運が良ければ不具合の修正後に「突然死」直前から「仮想宇宙」を再開できるが、そうでなければ「仮想宇宙」の「誕生」からシミュレーションをやり直すことになる。それよりもひどい場合は、「仮想宇宙」の実行がもう二度と不可能になるようなこともありうる(理由はハードウェアの損壊、予算の枯渇等々)。そうならないよう、「創造者」はシミュレーションの実行中ずっと不眠不休で監視にあたるのだ(実際には交代制で複数人が監視にあたるが)。
以上から類推されるのは、例え我々の宇宙がシミュレーションでなかったとしても、少なくとも「自然計算」による「情報処理」機構ではあるので、そこに宿った「知性」≒「意思」≒「創造者」が望むのは「誕生」から「終焉」まで我々の宇宙が無事一生を終えること、つまり「宇宙の円滑な運用」ということになるだろう。そのため、「創造者」は我々の宇宙の運用ルールである物理法則に「バグ」がないかを常時監視し、もしあれば不具合を修正して運用を継続する、といった活動に常時忙殺されているにちがいない(我々の現代文明で「仮想宇宙」のシミュレーションを実行する科学者やエンジニアらと同じように)。以上のことから、「創造者」が「情報処理」を行う目的は我々人類とまるで異なり、しかも自身の目的を達成する仕事で常に手一杯なため、平素の状況では「創造者」の側から我々に接触を図る理由がそもそもないのだと考えられる。
それでも、「創造者」からみると「実験中のサルやウイルス」のような存在の我々に接触せねばならない状況が1つだけありうる。それは、我々の挙動に「バグ」の兆候が表れた時である。しかし、広大な宇宙で「バグ」が起こる頻度はそう高くないと考えられ(それは有史以来我々人類が宇宙を観測してきたにもかかわらず「バグ」のような現象をまだ1度も発見できていないことから)、となると、頻度の点から考えても「創造者」の側から我々と意思疎通すべき状況はほぼ発生しない、という結論になる。