歴史の不在証明(65)
しかしそう言われたところで、今まで「人間(特に自分)の命」に最も価値があると思っていたのに、いきなりそれ以外、ましてや非生物まで同じ価値だというのは到底納得がいかない、という心情もわからないではない。それなら、これまでなぜ自分が「人間の命」に「最も価値がある」と考えていたのか、その理由を考えてみるとよいだろう。科学的姿勢を信条とする唯物論者や無神論者の場合、「人間」とそれ以外(他生物や非生物)を分けるのは「知性」の有無だと考える者が比較的多いようだ。つまり「人間」だけが「知性」を持つので、その「命」も、他生物や非生物に比べ価値があるという考えだ。そして彼らの言う「知性」とは、おおむね「情報処理能力」と同義である(※)。
(※)念のため言っておくが、「知性」=「情報処理能力」という理解は社会通念上必ずしも普遍的ではない。むしろ社会一般では、「善悪を識る」といった意味での倫理的な側面を持つことも多い。
「情報処理」という言葉自体はコンピュータが普及する前からあったものだが、唯物論者や無神論者が言う場合の「情報処理」は、どうも現在のコンピュータが持つ機能をイメージしているようだ。それは情報を「入力」として受け取り、何らかの「加工(処理)」を施した上で「出力」として返すといった機能のことである。しかし、その機能をもてば「知性」が宿ると考えてしまうと大きな問題が生じる。なぜなら、人間のみならず現在のコンピュータも「知性」を持つことになってしかうからだ。それに対して、唯物論者や無神論者は「情報処理能力」がある一定の水準を超えねば人間のような「知性」はもちえず、現在のコンピュータはいまだその水準に達していないと説明する。つまり、「情報処理能力」は「知性」の必要条件であるが(「知性」をもつには「情報処理能力」がなければならない)、それが必要十分条件(~であれば必ず「知性」をもつ)になるためには「情報処理能力」が十分に高い水準でなければならないということだ。では、どのくらいの水準があればよいのかというと、人間の「情報処理能力」が一つの基準になるのだろう。
しかし、その基準をもとにした「知性」の定義は、本論においてこれまで頻出してきた「不完全定義」(意味が一意的でない)そのものである。なぜなら、こと生物学の立場に限ってみても、人間以外の霊長目(サル等)にも「知性」を認める研究者、それどころか哺乳類一般(クジラやイルカ、オオカミ、豚等)、魚類や鳥類ですらある種の「知性」を持つという研究者も決して珍しくはない。その辺りの事情は、「知性を持つ動物」でネット検索すれば誰でも容易に確かめることができる。さらに、「集団的知性」という文脈であれば昆虫や細菌、果てはウイルスでさえも備えているとする学説も現に存在する。つまり、上の議論において“「人間の命」に「最も価値がある」”と主張した唯物論者や無神論者らが前提としていた“「人間」だけが「知性」を持つ”という認識は、現在の生物学では大勢において否定されているのだ。では仮に、学説にしたがってサルや(完全に生物とは言いがたい)ウイルスにまで「知性」を認め、それら全部に「人間の命」と同等の価値があるとすれば(彼らはもちろんそんな事は認めないだろうが)彼らの矛盾は解消されるのだろうか。残念ながら、それでも矛盾は解消しない。その理由は、「自己」=「内心」=「精神」の定義に関する以前の議論でも紹介した、“2050年前後にAIの知性が人間を超える「シンギュラリティ(技術的特異点)」”の問題があるからである。もし「シンギュラリティ」が本当に実現してしまったら、「知性」の水準(の高さ)で「価値」を測る唯物論者や無神論者らは、「最も価値がある」という「人間」の地位を非生物であるAIに喜んで譲るのだろうか? おそらくそうではあるまいという気はするが、そのとき、彼らが地位の委譲を頑迷に拒み、しかも確たる科学的根拠もなしにそうするというのなら、彼らの論理的正当性は完全に崩れ去るだろう。以上を総括すると、ようするに彼らの言う「知性を認めるに足る水準」などというものは、まさしく「自己」=「私」の範囲に関する議論の時と同じように、「その時々における人々の都合で適当に」決められるものだということだ。ゆえに「不完全定義」である。
それに対して、“そもそも抽象的な概念である「知性」を用いるから「不完全定義」になるのだ。ならば、その具象型ともいえる「情報処理能力」の物理的実測値である、単位時間当たりの計算可能量が一番高いものを「最も価値がある」と定義すればよい”という、(おそらくここでの批判的考察における最後の)反論もありえよう。なるほど、これなら確かに「完全定義」(意味が一意的)であるし、「単位時間当たりの計算可能量」(これを一般に「時間計算量」という)で測れば少なくとも今の地球上では「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」が最も高いと言えそうだ(もっとも、「シンギュラリティ」が起これば近い将来確実にに王座から陥落することになるが)。……ただし、それはあくまで「言えそうだ」というだけの直感的な見立てにすぎない。もし“「人間」の「神経系」の「時間計算量」が最高水準である”を科学的事実として確定させたいのであれば、その「時間計算量」を計測した具体的な手順が万人に開示されねばならない。情報工学においては、「時間計算量」を計測する対象は通常コンピュータ上で稼働するソフトウェアのアルゴリズムになるが、あるサイズのデータ(データ変数の個数など)を対象のアルゴリズムで処理する際に必要な手順(ひとかたまりの命令)の数が求める「計算量」となる。ただ、どこまでを「ひとかたまりの命令」とみなすかは厳密に考えると存外難しい問題であるので、実際の計測ではアルゴリズムをプログラム言語で記述したソースコード(処理命令文)の1行を「1手順」としてカウントすることも多い(それでも厳密に考えた場合の手順数とそう乖離しないことがわかっているため)。ソフトウェアに関しては、それでようやく「時間計算量」の計測が可能になる。それでは、「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」は、誰がどうやって「必要な手順」の数を計測したのか。もちろん、現在の脳科学では「神経系」の「処理」で用いられる「アルゴリズム」の完全な解明などなされていない。ましてや、それを文章化した「ソースコード」など今のところどこにも存在しない。よって、ソフトウェアの「時間計算量」を計測する時と同様の手段を用いることは不可能である。なら、一体何を根拠として“「人間の脳を中心とした……「時間計算量」が最高”などという結論を導いたのか。その根拠が明示できないのなら、“「時間計算量」が最高”などというのは「なんとなくそう思った」というだけの個人的感想にすぎない。
しかしこれで議論が終わってしまうと、“「人間の脳を中心とした……「時間計算量」が最高”という主張の真偽が不明なままになってしまう。そこで、上の議論で最初に述べた「情報処理」に関する最も素朴な定義に立ち戻ってみよう。すなわち、“情報を「入力」として受け取り、何らかの「加工(処理)」を施した上で「出力」として返す”という定義である。これを、本論で度々使用してきた、「日常感覚で直感的に」理解可能な「思考実験」を通じて考察する手法に適用してみよう。コンピュータの場合「入力」される情報は電気信号であるが、上記した本来の素朴な定義に立ち戻れば、「入力」されるのが必ずしも電気信号である必要はない。例えば、何ならパイプを通して流れ込む水であってもよい。ただし、高地にある池から低地にある池へただパイプで水を通しただけの仕組みでは「情報処理」機構とはいえない。なぜなら、高地から低地へと水が向かう途中で何の「加工(処理)」も施されていないからである。しかし、もし高地から低地へ、そしてさらに低い低地へ……と何段階にもわたって水がパイプで流れ落ちる仕組みを作ったなら、各層の水位の変動が下に行くほど小さくなっていき、その結果最下層の池では時間当たりの流量が一定となる。時間当たりの流量が一定になれば、それを利用して最下層の水位を「水時計」にすることができる。日本でも実際に、これと同じ仕組みの「水時計」が古代の遺跡から出土している。この機構であれば、途中の「多段層」による「加工(処理)」によって最下層における「排水量」=「時間」という情報=「出力」が得られる、一種の「情報処理」と考えても差し支えないのではないか。実は自然界の物理現象を一種の計算過程とみなし、そこから計算モデル(数式)を導き出す、「自然計算」という比較的新しい研究分野がある。この分野および関連の分野では、近年、遺伝物質(DNA)を使って数学計算をする手法や、自然現象から導かれた数式をコンピュータアルゴリズムに導入するといった独自の成果が得られつつある。この「自然計算」の観点から見ると、上述の「水時計」はまさしく「自然計算」であり、それを実装した機構は「情報処理」システムそのものといえる。それだけでなく、さまざまな生物の活動や化学反応、ミクロの量子世界からマクロの天体運行にいたるまで、自然現象はほとんどが「計算過程」と捉えることができ、「情報処理」を行っているとみなすことができるのだという。