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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
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歴史の不在証明(64)

 そして「自己」=「私」が虚像だとするならば、「私が無くなるのが恐い」と死を恐れる唯物論者や無神論者らの態度は(はなはだ)だ矛盾に満ちて不合理だと結論せざるをえない。なぜなら、「無くなるのが恐い」と言うからには「今は有る」ことが前提となるが、「私」に関していえばそれは幻想であり、上の考察によればそもそも最初から「私」など存在していなかったからだ。ありもしないモノが無くなる、そんな矛盾を本気で信じているとしたら、それを不合理と言わずして何と言おう。


 それでも、死を恐れる唯物論者や無神論者らは言うのだろう。「例え理屈に合わないとしても、やはり死ぬのは恐い!」と。しかし、この期に及べばもう言ってよいだろう。それは「生存欲求」による身体の機械的な反応にすぎない。「恐い」と感じることが(しゅ)(あるいは「遺伝子」、「血統」)の存続に有利だからこそ、進化のプロセスでそう感じるよう身体が設計されているだけのことだ。その結果、コンピュータがプログラム通りに動作するように、身体が「死が恐い」と感じるよう設計された機能を忠実になぞっているのだ。そして、その機能が故障したり(精神疾患等)、より権限を持つ機能(家族愛や愛国心等)によって抑制された場合には、いとも簡単に「死は恐くない」と感じているような言動へと変化することも前に述べた通りである。にもかかわらず、たまたま「死が恐い」と感じる機能が正常動作する環境下に今置かれているだけなのに、絶対普遍の真理であるかのように「死にたくない!」と必死で連呼する姿は、まるで命乞いをするように作られたオモチャ人形のようで哀れを誘う。


 しかし、ここに唯一、死を恐れる唯物論者や無神論者らによる有効な反論がある。それは次のようなものだ。「単なる物理現象や機械的反応に過ぎないとしても、何よりも大切だと私個人が思うのは自由なはずだし、何人(なんびと)であろうとそれを非難する資格などない。」 確かに、「大切だ」と思うのは法で許された「内心の自由」であり、本論でもそのこと自体を非難しているわけではない。さらに、もしここでの反論者が特定宗教の信者や神秘主義者であれば、その「内心の自由」一点だけで自己の正当性を主張したとしても何ら問題はない。しかし、科学的姿勢を信条とする唯物論者や無神論者にそれは許されない。彼らが自身の正当性を主張したいのであれば、客観的、合理的な根拠を示す必要がある。なぜなら、それが「科学的姿勢」というものだからだ。そして、本論では「科学的姿勢」に沿った客観的、合理的な考察を行った上で、彼らが「大切だ」と主張する「私」など実在しないことを立証した。もしそれに反論したいのであれば、彼らには客観的、合理的な反証となる根拠を示す義務がある。それができないのであれば、にもかかわらず、自身の命が「大切だ」という主張を取り下げないのなら、その時は、「科学的姿勢」とは相容れない信条をもつ特定宗教の信者や神秘主義者と自分が同じ立場であることをいさぎよく認めるべきだろう。


 とはいえ、本論では何も「人の命が大切だ」だという主張を否定しているわけではない。しかし「人の命だけ(・・)が大切だ」と主張するなら、科学的見地から見て明らかな論理矛盾があることを指摘しているのだ。なぜなら、以前の議論で神経細胞(ニューロン)や大脳生理学的なメカニズムを説明した際、「命がある」=「生存している」という状態に関して、それ自体は化学反応や分子機構のようなありふれた物理現象であり人体外でもよく見られる現象だということを説明した。つまり、物理学や化学といった科学的見地から見れば、体内で起こっている物理現象も体外で起こっている物理現象も本質的な差異はないのである(※)。そして、実はそのことが、「私」とは「その時々における人々の都合で適当に丸を描いて決めた範囲」のような曖昧な(くく)りにすぎないと上で述べたことの根拠の一つになっている。なぜなら、体内/体外のように便宜的に決めた「境界」の内と外が同質であればこそ、「適当に丸を描いて決め」るように「境界」をずらすことが可能になるからである(例えば、先の分離「腕」に関する議論の際の「所有権派」のように、体内/体外のような身体的「境界」を自らの権利行使範囲内/範囲外のような社会的「境界」に拡張することが可能になる)。以上のことから、もし「自己」=「私」の「命」(生存状態)に何らかの価値があるとしても、それは体外(地球上のみならず宇宙のあまねく場所)で起きているありふれた物理現象と同程度の価値しかないということになる。


(※)これについては、体内、特に「人間の脳を中心とした神経系」における物理現象は「情報処理活動」であること、ひいてはそれが人間に固有な「知性」を形づくっているという点で体外の物理現象とは本質的に異なる、という伝統的な反論がある。この反論も実は論理矛盾を抱えているのだが、それについてもすぐ後で論証する。


 それに対して、死を恐れる唯物論者や無神論者らは「人間の命を石ころや棒きれのようなくだらないモノと一緒にするな!」と感情的に反発しているのかもしれない。しかし、森羅万象のモノに対する彼らの「くだらない」という価値評価にこそ論理矛盾がある、というのが実は本論の最終的な結論である。先にも述べた通り、本論は「人の命が大切だ」という主張を否定してはいない。というより、その主張自体は「物事をどう見るか」という主観的な個人的見解であり、本来はそれぞれが好き勝手に思っていれば良いことである。これを本論における事実(1)としよう。次に、すぐ上で述べた「人の命の価値は森羅万象のモノと同程度」を事実(2)としよう。ここで、もし「森羅万象のモノ」の価値を「くだらない」としてしまうと(1)と(2)が矛盾する、というのが先ほどから言っている「論理的矛盾」の構造である。この矛盾を解消するにはどうしたら良いか? それなら、「森羅万象のモノ」の価値を「大切だ」に変更してみればいい。はたして、そのような変更は許されるのか? もちろん許される。科学的見地からみれば「人の命が大切だ」、つまり価値が「有る」というのはどう考えても話者の既成概念、すなわち思い込みであろう。一方、「(森羅万象の)モノがくだらない」、つまり価値が「無い」というのも既成概念であり思い込みだろう。それらはどちらも考え方一つでどうとでもなるものであり、また、どうしたところで自然界が物理的影響を受けることは一切ない。ならば変えてしまえば良いのだ。いわゆる発想の転換というヤツである。そう考えると、そもそも「人の命」を「有」とし、「モノ」を「無」としていた彼らの考えが既成概念に凝り固まった偏見であったようにも思えてくる。我々の認識界においてこれほど簡単に「無」が「有」にくつがえるのなら、「無」と「有」の間には元来それほどの差はないのかもしれない。これは般若心経にいう「色即是空」(https://dictionary.goo.ne.jp/word/色即是空/)および「空即是色」(https://dictionary.goo.ne.jp/word/空即是色/)に近い境地とはいえないだろうか。


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