歴史の不在証明(63)
ここで本論の大きな流れを改めて俯瞰するため、かなりさかのぼって小括することにしよう。
人類が進歩を望むなら「(個人や社会に改善をもたらすという意味での)有効」な施策が必要であり、そのためには、社会の成員である個人が時には自らの死につながりかねない「死の選択肢」を実行する必要がある。そのような自己犠牲的行為に対しては社会によって何らかの補償(金銭的/非金銭的)が行われるが、それでも一部に「死の選択肢」を頑強に拒む人々がおり、それが結果的に社会的な非効率(「有効性」の阻害)をもたらしている。彼らがそこまで拒むのは自らの命の価値が「プラス無限大」(「取引に絶対応じない」という心象の数量表現)だと考えているせいであり、では、どのような人が「プラス無限大」と考えているのかを考察した結果、一般に神秘主義や特定宗教を信じる人々は自身の命にそこまでの価値を置かない(彼らにとって最も価値があるのは神仏や教義)ので、唯物論者や無神論者(および、神仏や教義を完全に信じ切れていない神秘主義者や特定宗教の信者)がそれに該当するという結論が得られた。またその過程で、人が「死」を拒絶する多くの「理由」のうち「自己の消滅」以外は全て補償(金銭的/非金銭的)が可能であること、また、「自己」=「精神」の物理的実体が「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」であるという付随的な結論も得られた。そこで、それら付随的結論を前提として、「死の選択肢」ひいては「死」を拒絶する唯物論者や無神論者らも「自己の消滅」を恐れている(そのために「死」を拒絶する)と考え、「自己の消滅」=「神経系による情報処理活動の停止」を恐れるメカニズムを、唯物論者や無神論者らが信条とする科学的見地から明らかにした。その結果、「自己」そのものはイオン(電解質)の移動や化学結合といったありふれた物理現象であること、また、それらの現象が大脳新皮質のような脳内器官で集積することによって生じる「生存欲求」も、物理現象であるがゆえに優れて機械的な仕組みであること、ならば薬剤等の物理的な作用、社会的な役割や愛といった心理的作用によって「生存欲求」を軽減もしくは無化することが可能であることがわかった。よって、科学的見地に立てば、必要に応じて物理的作用もしくは心理的作用で「生存欲求」を軽減・無化することが「有効性」を実現するための社会的な最適解となる。
しかし、それでもなお納得せず「私」=「自己」を特別視して執着するような唯物論者・無神論者もいると考え、本論では「私」の正体についてさらに掘り下げた考察を加えた。まず、唯物論者・無神論者の大多数にとって「私」とは第一義的に自身の肉体であることから、“「全身の肉体」=「私」であるなら、分離された「腕」も引き続き「私」であり続けるか?”についての思考実験を行い「分離した腕」を人々がどう考えるかをシミュレートした結果、(1)日常感覚で直感的に“分離「腕」は「私」ではない”と考える「常識派」、(2)“「腕」を再接合して機能させられるなら「私」だ”と考える「利用価値派」、(3)“分離「腕」には自己の制御が及ばないので「私」ではない”と考える「システム論派」、(4)“分離「腕」は社会的な権利主体である「私」の一部”と考える「所有権派」の4派に類型化された。このうち、(2)の「利用価値派」と(3)の「システム論派」は条件付きで“「私」だ/「私」ではない”と言っていることから、彼らが意識する「私」の範囲は時と場合によって変化すると考えられた。それに対して、(1)の「常識派」と(4)の「所有権派」が意識する「私」の範囲は当初変化しないと思われたが、より詳細な追加的考察を行った結果、それらも時と場合によって変化することがわかった。(1)に関しては「日常感覚」の定義が不完全(意味が一意的でない)であるため、日常生活において我々が「日常感覚」を発揮する場面を具体的に想起し、それを詳細に観察することで得られた洞察から再定義をするという「工夫」が必要であった。しかしその結果、「直感」は個人の置かれた場の状況や自身のこれまでの経験、信条、心理状態といった諸条件の影響を鋭敏に反映することがわかった。このことから、「直感」を根拠とする(1)の「常識派」が意識する「私」の範囲もまた、時と場合によって変化することが明らかとなった。(4)の「所有権派」については、分離「腕」以外の「不要な身体パーツ」として、「爪切りで切った爪」、「抜け落ちた乳歯」、「髪の毛」、「垢」、「摘出した腫瘤(いわゆるコブのこと)」、「美容手術で切除した顔骨」らもとり上げて比較分析的にケーススタディ(事例研究)を行った結果、「所有権を主張」する対象(ここでは身体パーツ)も理由も、人それぞれで千差万別だということがわかった。それによって、(4)の「所有権派」が意識する「私」の範囲も時と場合によって変化する、という結論に至った。
以上が小括であるが、それをふまえて「私」の正体についての結論を述べるなら、物理的な実体としての「私」自体が、結局のところ不完全定義(意味が一意的でない)ならぬ不完全物体(対象物が1つに定まらない)だったということだ。要するに、「私」などというモノは時と場合と人によって不定形に形(範囲)が変わり、形が変わればまた「私」が指し示す内容も変化するのだ。考えてみれば、自動車の運転に熟達するとあたかも自己の身体感覚が車全体に広がったかのような「車幅感覚」が得られるし、コンピュータゲームに没入すると操作しているキャラクターやアバターを自分自身と錯覚し、ゲーム内で敵に攻撃されたとき痛みを感じた(ような気がした)り、といった経験を我々は普段からしているではないか。また以前に、子の命を救うため犠牲となって死んだ親の実例をいくつか紹介したが、これも、「生物は個体ではなく遺伝子を存続させるよう進化してきた」とするリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」説によれば、「死んだ親」は自分だけでなく「遺伝子」(血統)を継いだ「子」も含めて『私』だと(無意識に?)認識していた、ということになろう。したがって「子を守って死んだ」という美談は、実は、血統も含めた広義の意味での『私』を守ったにすぎないことになる。歴史的にみれば、近代以前において「行動する主体」としての「私」は、「宗教(神)」や「家(一族)」、「身分(武家、農民等)」「地域(村、国等)」等に隷属する副次的なものであった。そのため昔の日本、例えば江戸時代であれば、「お家」のために武士が腹を切ったり、農民の長が「村」のために代表して処刑されるということが常套的に行われてきたし、当時の文献を読む限り、切腹したり処刑される当人達ですら殊更それに不条理を感じている様子はない。つまり彼らにとっては、「家」や「村」込みでようやく「私」が成立していたのだ。なので、たとえ自身の肉体が破壊し尽くされても「私が消滅する」という意識には乏しかったことだろう。しかし近代社会になると、資本主義を支える消費の1単位として、また民主主義を支える投票の1単位として一定の財力と知力を持った均一な個人が必要となった。結果的には、それに応える形で「我思うゆえに我あり」や「自己本位」である存在としての「近代的自我」が誕生した。この「近代的自我」は、「家」や「村」といった外部環境に依存せず独立して存在する代わりに、(その定義から)肉体が破壊されれば「自我」も消滅する性質のものであった。そう考えると、「死」を拒む唯物論者・無神論者が最後まで執着した「私」とは、この「近代的自我」であったことがわかる。以上述べたことによって、「私」という語が指し示す物理的実体や概念に決まった形がないことに関しては、これまでだっていくらも傍証があったことが理解いただけたと思う。本論ではさらに、批判的検証、特に「分離した腕」に関する思考実験を通して厳密な検証を加えることによって直接の証拠とした。だから、ここで我々は次のように断言することができる。
「死」を拒絶する唯物論者や無神論者らが失うことを恐れている「自己」=「私」とは、その時々における人々の都合で適当に丸を描いて決めた範囲のような、実に曖昧で確固たる実体をもたぬ虚像にすぎない。