歴史の不在証明(62)
「私は記憶を失った」ケースでの、“「記憶」込みで「私」と認識する人”とは、“記憶がない自分はもはや(それまでの)「私」とはいえない”のような主張をする人のことである。医療・介護現場の従事者によれば、認知症による記憶障害を発症した高齢者などは実際にそのような不安を口にするという。それに対して、“「記憶」抜きでも「私」と認識する人”というのは、“記憶を失った自分もまた「私」である” のような主張をする人のことである。そのような主張は、若年層向け創作物の主人公や主要な登場人物が言うセリフに結構みられる。おそらく、それらはメインとなる読者層が共感することを前提に書かれているセリフだと思われるので、一般的な若年層がもつ考えに比較的近いのだろう。このように、「どのような人が」「どのような状況」で表明した主張なのかを考えてみることによって、主張者のペルソナ(典型的あるいは象徴的な人物像)が見えてくる。その結果、“「記憶」込みで「私」と認識する人”は「病気や老化によって記憶を失う状況が目前に迫る高齢者」、“「記憶」抜きでも「私」と認識する人”は「まだ記憶を失う心配がなく、失っても(治療等で)取り戻せる可能性がある若年者」という対照的なペルソナが得られる。
「私は信頼を失った」ケースでの、“「信頼」込みで「私」と認識する人”とは、“これまで築き上げてきた「信頼」は「私」そのものだ!”のような主張をする人のことである。今度は「記憶」に代わって「信頼」を扱うことになるが、日常生活で「信頼」が使われる場面をリアルに想定するのなら「誰からの信頼か」まで考える必要がある。それが「利害関係者からの信頼」ということなら、「信用」が融資の決め手となる金融業界人などは“築き上げてきた(預金者や投資家からの)「信頼」は「私」そのもの”のような物言いをすることもありうる。また、特定の相手でなく「誰からも」、すなわち「不特定多数からの信頼」を得たいということなら、一般に政治家や教師、また、僧侶や神父といった聖職者が当てはまるだろう(本当に「誰からも」信頼されているのかについては置いておいて)。以上を総合的に勘案した結果、“「信頼」込みで「私」と認識する人”に関しては、「自らの仕事や地位に誇りを持ち、それを極めようとする理想主義者」というペルソナが得られる。一方、“「信頼」抜きでも「私」と認識する人”は“「信頼」などなくても「私」は「私」だ”のような主張をする人のことである。もし、その主張の言わんとするところが「誰からも、どのような類の信頼も一切不要」であったなら、世間に暮らす我々日常人で当てはまる人はそういまいと思われる。しかし、「仕事をする上で関わる人からの信頼は必ずしも必要ない」という主旨であれば、スポーツ選手のような勝負師、指揮命令に従う義務のある軍人や警察官、金銭などの利得や暴力への恐怖心が行動原理となるヤクザやマフィアといった反社会勢力の構成員が当てはまるだろう。そこから、“「信頼」抜きでも「私」と認識する人”のペルソナとしては、「競争相手に勝つ、あるいは生存に必要なことだけを実践する現実主義者」が得られる。
もちろん、ある主張をする(はずの)ペルソナに合致しなくても、そのような主張をする人がいることは否定できない。例えば、必ずしも「高齢者」でなくても、若年性の認知症や解離性健忘などを患っている場合、あるいは「復讐を誓って生きる人」のように、過去の特定の体験に自らのレゾンデートル(存在意義)を置く人のような場合は、「若年層」が“記憶がない自分はもはや(それまでの)「私」とはいえない”のような主張をすることもあるだろう。また、「理想主義者」ではあるが「自分が信頼できていれば相手からの信頼は求めない」といった独自の信条をもつために“「信頼」などなくても「私」は「私」だ”のような主張をする人がいてもおかしくはない。他には、反社会勢力の構成員でありながら「義理と人情」を重んじるため“これまで築き上げてきた(親分や兄貴分、子分からの)「信頼」は「私」そのものだ!”のような主張をする人もいるだろう。しかしながら、ここではそれに重要な意義はない。IT技術者であるアラン・クーパーが最初に考案した「ペルソナ」という用語は、そもそも「例外がない」ことを要件としておらず、また「多数派」を意味する言葉でもない。ある主張のペルソナ=「その主張をする典型的あるいは象徴的な人物像」というのは、アラン・クーパー以来の定義に準じれば“そのような「主張」をする人々の中に、必ず含まれると考えられる人物像”ということになる。もっとも、あくまで「必ず含まれると考えられる」なので、実際には含まれないことも稀にある(統計学の言葉で言うなら“一定の有意水準で「含まれない」という仮説が棄却される”)。
そのようなあいまいな基準の用語である「ペルソナ」をここで用いるのは、本論における議論の目的が、“どのような人物がそのような「主張」をするのか”の検証ではなく、“そのような「主張」をする人物が本当にいると思えるか”の検証だからである。しかも、ここまでの議論の文脈上、「本当にいると思えるか」という判断は「日常感覚」に基づいて行わねばならない。これをもっと平易に言い換えるなら、“日々を生きる我々が日常感覚で直感的に「いそうだ」と思える”人物像なのかを検証する、ということだ。なので、特に多数派である必要も、100%実在することの証明も必要ないのである。
では、ここまでに登場したペルソナ、“「記憶」込みで「私」と認識する”「病気や老化によって記憶を失う状況が目前に迫る高齢者」、“「記憶」抜きでも「私」と認識する”「まだ記憶を失う心配がなく、失っても(治療等で)取り戻せる可能性がある若年者」、“「信頼」込みで「私」と認識する”「自らの仕事や地位に誇りを持ち、それを極めようとする理想主義者」、“「信頼」抜きでも「私」と認識する”「競争相手に勝つ、あるいは生存に必要なことだけを実践する現実主義者」は、あなたにとって(日常感覚的に)「いそうだ」と思える人物だろうか。もちろん、それについては各人各様の感じ方があるだろうが、少なくとも私にとっては「 」で表現された性質をもつ人物が“ ”内のような主張をするのは十分に説得力があるように思える。印象論として、「ああ、確かにそのような人物ならそんなことを言いそうだ」と思えるのだ。そして、もしあなたも私と同じ印象を抱いたなら、“ ”内の主張がどれも主張者の意識する「私」の範囲についてであることを考えると、彼らの主張する「私」の範囲が全て肯定されることになる。とはいっても、彼らはそれぞれが異なる背景を持つ多様な人物であり、そのような彼らが主張する「私」の範囲が皆正しいとなると、それは、ここで考えている「私」の範囲が、主張者個人の置かれた場の状況や自身のこれまでの経験、信条、心理状態といった諸条件の影響を受けつつ「日常感覚」で「直感」的に決まることを意味する。その結果、当然ながらここでの「私」の範囲は人(主張者)によってバラバラとなる。なお、ここで「ここ」という語が示しているのは“「常識派」が考える「私」に含まれる範囲の(批判的)考察”である。
以上の議論から、「私」に含まれる範囲が「いついかなる時も変化しない」グループだとして「常識派」を分類した、以前の暫定的な結論もまた誤りであったことが立証された。