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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
174/182

歴史の不在証明(61)

 したがって、「私」に含まれる範囲が「いついかなる時も変化しない」グループだと暫定的に分類した2派のうち、「所有権派」は誤分類であったことが判明したので残っているのは「常識派」だけとなった。


 「常識派」というのは、日常において、特に明確な理由や根拠を意識せずに「私は事故で腕を失った」のような表現をする人々のことである。その様子から、彼らは“分離した「腕」は「私」ではない”と日常感覚的に、「何となく」判断しているものと類推される。また、そのような「常識派」は社会において圧倒的多数であろうとも考えられる。ところで、本論においてさんざん多用してきた「日常感覚」という語であるが、実は明確な定義が存在しない「不完全語」である。まず、本論でたびたび引用してきたオンライン辞書サイト(https://dictionary.goo.ne.jp/)には「日常感覚」に関する記載がない。他の(無償)オンライン辞書も、筆者の調べた限り、唯一 https://thesaurus.weblio.jp/content/日常感覚 に「平均的に暮らしている人達のものの捉え方のこと」という記述があったのみである。しかし、この記述は典型的な不完全定義(意味が一意的でない)である。なぜなら、「暮らしている人達」に誰を想定するかで「捉え方」の内容が大きく変わってしまうからだ。ただし、「平均的に」という修飾語が付くことから、少なくとも「暮らしている人達」が属する社会単位(国、自治体、民族、人種等)においては多数派の「捉え方」でなければならないという条件がつくことはわかる。その付帯条件だけは完全定義(意味が一意的である)なのだが、それでも、異なる「社会単位」同士では多数派の「捉え方」もまた内容が異なると考えられるので文章全体としてはやはり不完全定義である。一方、語の用法としては、「日常感覚や常識」あるいは「日常感覚や経験(則/知)」のように「常識」「経験」と並用されることが多いのでそれらの類語としての位置づけにあると思われるが、それだと過去に前例のない事態に遭遇したとき「日常感覚」が機能しなくなるような印象を受ける。しかし、「日常感覚」という語が単独で使用される場合は「普段通り」「カジュアル」「気軽に」というニュアンスも多いことから、必ずしも前例のない事態に対応ができないとも思えない。なぜなら、例え前例がなくても「普段通り」に、あるいは「気軽に」に対応すれば良いだけだからだ。したがって、「常識」「経験」の類語という位置づけも、「普段通り」「カジュアル」「気軽に」というニュアンスも、「日常感覚」の定義としてはどちらも限定的な一側面しか捉えていないと言わざるをえない。


 このように「常識派」の定義に「日常感覚」という不完全語が含まれることで一体何が困るのかというと、上で挙げた「私は事故で腕を失った」の例における、“分離した「腕」は「私」ではない”という結論を類似の他ケースでも援用することが必ずしも適切でなくなるということだ。例えば、「私は愛する人を失った」というケースであれば、「腕を失った」場合の例と同様に“「愛する人」は「私」ではない”と結論づけても、多くの人の「捉え方」(多数派の判断)とそう大きくは乖離しないだろう。しかし、「私は記憶を失った」というケースの場合ではどうだろうか? もし「腕を失った」ケースの類型に従って“「記憶」は「私」ではない”と結論づけたなら、一方では“記憶を失った自分もまた「私」である”と首肯する者もいるだろうが、同時に“記憶がない自分はもはや(それまでの)「私」とはいえない”と異論を唱える者も一定数の無視できない規模で現れるのではないか。つまり、類型に従って結論を導いてもそれが「多数派の意見」になるとは限らないということである。では次に、「私は信頼を失った」というケースだったらどうか? これに対する結論が“「信頼」は「私」ではない”であったなら、社会によっては“これまで築き上げてきた「信頼」は「私」そのものだ!”と反論する者の方が多数派になることもありえるのではないか。以上のような、ある事例の結論を類型として別の事例に援用できなくなるという事態は、ひとえに「日常感覚」の定義が不完全性をもつことに起因している。本来ならば、今考えている「日常感覚」は「具体的にどの社会における多数意見なのか?」という問題をあらかじめ解決してから結論を導くべきなのに、定義の不完全性がその解決を原理的に阻むからだ。


 にもかかわらず、本論では「日常感覚」という判断基準を決して放棄することはしない。なぜならそれは、(前にも述べたことであるが)本論が一貫して功利主義の立場をとっているからだ。そのような立場をとる本論において「正しいこと」とは、決して科学的な事実でもなければ哲学的な真理でもなく、あるいは宗教教義や倫理規範にしたがった言動でもなく、ただ、「(個人や社会に改善をもたらすという意味での)有効」であること、を指す。そして、そのような意味での「有効性」を実現するためには、社会の成員、つまり日常を生きる我々が考えを変え行動を変容させるような解決策としての「結論」が必要となる。ならば、変わるべき「考え」について、まず日常人である我々が理解して納得しなくてはならない。ただし、それも重要ではあるが、それだけで十分とは言えないことにも留意すべきである。すなわち、我々の、少なくとも大半が理解し納得するような「考え」でなくてはならない、ということだ。そうでなくては、個人のみならず社会全体をも改善することなど不可能だからである。それに少しでも資するため、本論では「結論」そのものと、そこに至るまでの考察のプロセスが(我々のような、必ずしも秀でた感性や知性に恵まれていない)日常人にも理解できるよう「日常感覚」という基準にもとづく論考が必要なのである。


 ではどうするか。それは、前に本論において、「自己」に関する辞書的な定義をあきらめ「日常感覚」によって再定義したように、ここでも「日常感覚」に関する辞書的な定義をあきらめ「日常感覚」によって再定義すればよいのだ。具体的には、日常生活において我々が「日常感覚」を発揮する場面を具体的に想起して、それを詳細に観察し気づいたことを定義に盛り込めばよい。まず、上でも述べたように、普段我々は明確な理由や根拠を意識せず「日常感覚」による判断を下している。このような判断を「直感的判断」という。「直感」の定義は、いつもの辞書(https://dictionary.goo.ne.jp/)によると「推理・考察などによるのでなく、感覚によって物事をとらえること」とある。ただし、その「直感的判断」による結果は、対象とする社会が違えば異なるものになりうる。それについても前述した通りである。しかし、ここで疑問が一つ生じる――「直感」に影響を与えるのは果たして「(所属する)社会の違い」だけなのか。それを確かめるには、思考実験的に何か課題を自分に与えて、「直感的判断」を実際に下してみればよい。そして、それは本論においてすでに実行済みである。上でとりあげた「私は記憶を失った」と「私は信頼を失った」の2ケースにおける、「私」として意識する範囲に関する思考実験がそれである。「私は記憶を失った」ケースでは、「記憶」込みで「私」と認識する人と、「記憶」抜きでも「私」と認識する人がいるだろうことを予想した。「私は信頼を失った」ケースでも同様に、「私」の認識に「信頼」が含まれる人と含まれない人がいるだろうと予想した。では、そもそもなぜそのような認識の差が生まれるのだろうか。


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