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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
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歴史の不在証明(59)

 日常感覚的に判断すれば、「私は事故で腕を失った」といった表現が慣用的に用いられることからも、一般的な人は分離された「腕」をもはや「私」とは考えないと思われる。なぜなら、もし分離された「腕」を引き続き「私」だと思っているなら、「私は事故で腕を失った」ではなく「私は事故で、腕とそれ以外(の身体部分)に別れた」と表現するはずだからである。それは唯物論者や無神論者であっても同じだと考えられるので、彼らもやはり分離した「腕」を「私」とは考えない人が多数派だと思われる。よって、“分離した「腕」は「私」ではない”というのがこの思考実験における「常識的な回答」ということになる。


 しかし「常識的」であることは必ずしも正しさを保証するわけではない。なのでここでは「常識派」以外の少数派、ある意味「ひねくれた」考えをもつ唯物論者や無神論者の意見にも耳を傾けてみよう。そうすることで、我々の側にも思いがけない気づきや発見があるかもしれない。


 まず、唯物論者や無神論者は自然科学を信条とする者が多いので、「切断された腕でも適切に保存し、かつ迅速に医療機関へ持ち込めば再接続することが可能」という近年の医学的事実をもとに、“再度つなげて機能させられる可能性があるなら分離した「腕」でも引き続き「私」の一部である”と主張する者がいるかもしれない。ちなみに、鋭利な刃物で切断したような断面で清潔に保たれていれば再接合は容易だが、引きちぎれる、あるいは押しつぶされて切れる、断面が壊死している等の状態だと現在の医学でも再接合は困難もしくは不可能である。再接合が不可能な事例の場合は、上のように主張する者も“分離した「腕」は「私」ではない”という意見に変わることが考えられる。


 次に、唯物論的に考えるなら「私」とは自分の身体に他ならないが、ここで言う「自分の身体」とは自らの制御が及ぶ範囲の物体を指し示すので(実際、そのように「自分の身体」をとらえている唯物論者は多い)、“もはや自分の意思に従って動作させることができない分離「腕」は「私」の一部ではない”と主張する一派もいるだろう。彼らのような一派は、医学的施術によって再接合し再び意のままに動かすという、上でも述べたような状況になれば、おそらく“分離「腕」は「私」ではなかったが、再接合によって「私」に復帰した”と説明するだろう。


 一方、これは唯物論者や無神論者に限らないが、例え分離した「腕」であっても廃棄物として処分されたり誰かに持ち去られれば憤りを感じるはずだという心理を根拠に、“我が身より()でしものならその使用や処分が許されるのは「私」のみのはずであり、その意味において社会的な権利の主体を意味する<私>を構成する一部といえるので「私」に含まれる”と主張する者たちもいよう。彼らの場合は上の2派と異なり、再接合が不可能、あるいは自己の制御が及ばない等のいかなる外的条件の変化が起きようとも“分離「腕」は「私」である”という結論が変わることはない。


 他にも類型を挙げていけばきりがないが、こうして考えてみると「常識派」以外にも様々な意見がありうることがわかる。しかも私がみる限り、少数派の意見であってもそこには一定の根拠があり、決して間違っているものばかりとは言いがたい。むしろ上で挙げた意見の中で相対的に信頼度が低いのは、論理的とは言いがたい日常的感覚に頼るのみで確固たる根拠をもたない「常識派」の方である。


 いずれにせよ誤りと言い切れないのであれば、これら少数派の意見も「常識派」と同じく思考実験の正当な回答候補として列挙してよいだろう。その際、“「腕」が再接合後に機能するなら「私」だ”とする最初の意見は、自分にとっての利用価値を基準に判断したといえるので「利用価値派」と呼ぶことにする。次に、“分離「腕」には自己の制御が及ばないので「私」ではない”とした意見は、制御(目的を達成するための操作・調整)の有効範囲というシステム論的な観点から判断しているので「システム論派」としよう。最後に、“分離「腕」は社会的な権利主体である「私」の一部”と主張した一派は(財産の)所有権を根拠にしているので「所有権派」とする。


 名を与えて再定義したこれらの意見を改めて俯瞰してみると、最初に気付くのは、「私」に含まれる範囲が状況によって変化する「利用価値派」「システム論派」と、(上で考察した限りにおいては)変化しない「常識派」「所有権派」という2つのグループに分けられるということである。しかし、変化しないグループにわざわざ( )付きの注釈を加えたのは、上の考察だけでは「いついかなる時も変化しない」という結論を導くには不十分と判断したからである。よって、以下では「変化しないグループ」が本当に「いついかなる時も変化しない」のかについての追加的な考察を行う。ただし、「常識派」については定義に若干の不完全性を含むので(上で「確固たる根拠をもたない」と言った部分)、追加的な考察を行う前に定義を再考し完全性を高める努力をしなくてはならない。それは当然後で行うとして、話が少し長くなりそうなので先に「所有権派」の再考察を行うこととする。


 上の思考実験において、「所有権派」は分離した「腕」が例え再接合不能であっても「私のモノ(財産)」だとして所有権を主張した。しかしこれは「所有権派」に分類されるような人なら所有権を主張するであろうといういわばトートロジーであり、決して誰もが同じ状況で所有権を主張すると言っているわけではない。中には、再接合が不可能なら自身の「腕」も「ゴミ同然」とみなし自ら廃棄する人がいるかもしれない。しかしその一方で、「例え不要な身体パーツであっても所有権を主張する」という行動パターンもまた多くの人に当てはまりそうな仮説ではある。ではどちらが正しいのか、というより、どっちが(我々の社会において)より一般的といえるだろうか。それは言い換えると「どっちが多数派か」ということになるが、「不要な身体パーツ」が「分離した腕」であれば直感的には「所有権を主張する」派が多数になりそうな気がする(断言はできない)。しかし「不要な身体パーツ」が「爪切りで切った爪」であるなら「所有権を主張する」派が少数となるのは自明だろう。では、「分離した腕」と「爪切りで切った爪」の違いは一体何だろうか? どちらにも紛れもなく「不要な身体パーツ」であることに違いはない。あらかじめ断っておくが、「腕」は我々の生存やQOL(生活の質)に大きく影響する重要な器官であるのに対し、「爪」は失うと多少不便になるものの致命的というほどではない、というのはここで言う「違い」にはあたらない。なぜならそれは、「腕」であっても「爪」であっても「分離される前」にしか当てはまらないからである。そう考えると、結局のところ「分離した腕」は「欲しがる人(所有権を主張する人)」が比較的多く「切った爪」は少ないといった外形的な違いしか見当たらない、ということに気付く。ではいっそのこと、その「外形的な違い」で「一般的かどうか」を判断してみてはどうか。つまり実際に社会を観察してみて、もし「欲しがる人」が多ければ当該の「不要身体パーツ」に関しては「所有権主張が一般的」とし、少なければ「所有権放棄が一般的」と判定するのである。もしその方法で全ての「不要身体パーツ」が判定可能なら、当面はそれを採用して議論を先に進めてもいいだろう。しかし、残念ながらその方法で判定不能な「不要身体パーツ」は存在する。「抜け落ちた乳歯」である。昭和の昔は抜けた歯を屋根に放れば丈夫な永久歯が生えてくるという言い伝えが広く実践されていたが、これは「不要な身体パーツ」を「儀式で消費する」という形式で廃棄していたと見ることもできる。現在でもこの言い伝えを実践する人は少なくないが、その一方で、子どもの成長の証として抜けた乳歯を専用のケースに入れ長らく保存するという人々もだいぶ増えてきたという。それをふまえると、現在は「抜け落ちた乳歯」に関して「欲しがる人」が多いとも少ないとも言い難い過渡期にあると考えられる。よって、「欲しがる人」が多いか少ないかという外形的な違いで判断する先の方法を採用することはできない。というわけで振り出しに戻ったわけだが、ここまでの議論をふまえ、以降で別の判断基準を模索する際は「外形的な違い」を除外して考えることとする。


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