歴史の不在証明(58)
その前に議論の重複を避けるため、「私」という語に関する本論での考察をここで小括しておこう。最初に「私」が登場したのは、「死にたくない理由」の一つに「自己の消滅」が挙げられる(https://i.kawasaki-m.ac.jp/mwsoc/journal/jp/2007-j16-2/22_sekido.pdf より)ことに関して、「自己」という語の定義が不完全(意味が一意的でない)であるため解釈が困難という文脈においてであった。そのため「自己」の辞書的な解釈をあきらめ、日常感覚で理解することで行動を変容させるのに資する(=本論における意味において「有効」な)再定義を行うことにしたのだが、それに先立ち、日常生活において「自己」の同義語として用いられる語のバリエーションを考えた際「僕」「俺」「自分」らと一緒に挙げられたのが「私」であった。それら同義語も含め日常における意味や用法を様々な角度から考察した結果、(「私」の同義語としての)「自己」は「内心」「精神」と両義性を持つよう再定義された。なお、「自己」=「内心」=「精神」という再定義を導く過程で想定した「日常」は、誰もが経験する最大公約数的な事例のみを対象とすることで、唯物論者、無神論者、神秘主義者、特定宗教の信者のいずれであっても容認可能な定義となるよう心がけた。その後、「自分の命(「精神」)」の経済的価値を「プラス無限大」と考える人々の評価妥当性を検討する必要上、同義語の中でも特に「精神」を採り上げることになったが、さらに、その辞書的な定義の一つである「(人間のこころの)知的な働き」に的を絞って議論した。その結果、神秘主義や特定宗教に完全に帰依した人ほど「自分の命の価値をプラス無限大」とは考えないことがわかったので、批判的考察の対象を唯物論者や無神論者だけに限定することになった。その際、前出の「(人間のこころの)知的な働き」という定義を引き続き採用したが、それは、この定義の完全性(意味の一意性)が非常に高いため唯物論者や無神論者が信条とすることが多い自然科学と非常に相性が良かったことによる。実際、唯物論者や無神論者は、「知的な働き」を「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」という、自然科学用語を使った完全定義(意味が一意な定義)として理解する者がほとんどである。その後はこの完全定義に則り、「神経系による情報処理活動」の実態が神経細胞網の電位変化や化学反応であることを示すことで、「自己」=「精神」=「知的な働き」が普遍的な物理現象にすぎず何ら特別視する理由がないことを明らかにした。それに対して、「私が無くなるのが恐い(他者がではない)」という自身の「生存欲求」を根拠として、「私に生じた物理現象である」という意味において十分に「特別」だとする反論が想定されたので、脳幹や大脳辺縁系、新皮質といった脳内器官の機能と相互作用に着目する大脳生理学的な観点から「生存欲求」発生の原理を考察した結果、「生存欲求」も所詮は化学反応や分子機構、新皮質のような脳内器官に由来する心理作用であったため、人為的操作によって欲求自体を軽減もしくは無化することが可能(よって反論の根拠にならない)ということがわかった、というのがここまでの流れである。
以上の経緯における「私」という語の位置づけから「私」の物理的な実体を類推しようとするとき、議論の後半部で大脳生理学的な説明をかなり多用したので、唯物論者や無神論者にとっての「私」とは「脳(大脳)」のことを指す、と一部の読者に誤解を与えてしまったかもしれない。実際、唯物論者や無神論者の中にはそのように勘違いする者も多いので無理からぬことではあるが、それでもやはり間違いは間違いである。上の議論では「私」の同義語である「精神(知的な働き)」を「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」と定義したが、そこにもう一度注目してほしい。もし「私」=「脳(大脳)」であったなら、そこでの表現は「脳を中心とした神経系」でなく「脳(大脳)の神経系」となったはずだ。しかしそうはならなかった。実際に用いられた「脳を中心とした神経系」という表現は、素直に解釈するなら脳以外の頭部、四肢、胴体といった全身に張り巡らされた神経網を指すことになる。したがって「私」の物理的実体は、脳だけでなく、それも含めた全身の神経網による情報処理活動といえる。ただし、ここでいう「情報処理活動」は、神経網だけで機能を完結できるわけではないことにも留意してほしい。例えばコンピュータによる情報処理活動を考えてみると、実際の利用シーンではコンピュータ本体だけがあっても何の役にも立たない。それに必要な外部周辺機器(モニター・ディスプレイ、キーボード、マウス、カメラ、プリンタなど)が接続されてこそ、はじめてコンピュータ本体は有用な機能を発揮できるのだ。神経網による「情報処理活動」も同様に、目や耳などの感覚器官、筋肉や骨格のような運動器官、消化器や循環器のような内臓器官らが神経網によって脳(大脳)と接続されてこそ、はじめて脳の機能は完結するのである。したがって機能の完結性まで考慮すれば、「私」とは、脳(大脳)と神経網で接続された諸器官を含む全身の肉体ということになろう。
しかし、である。本当に「私」=「全身の肉体」という定義は完全(意味が一意的)といえるのだろうか。例えば、「全身の肉体」の中に「私」でない部分は本当に存在しないのか。あるいは、「全身の肉体」以外に、「私」である物質はこの世に全く存在しない言い切れるだろうか。ここでそのような疑問を呈することについては、上でいったん「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」=「精神(知的な働き)」=「自己」=「私」という定義を是とした議論を展開したので「何を今さら」と思われるかもしれないが、そもそも「知的な働き」=「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」という定義は「唯物論者や無神論者の多くが採用している」例として導入したにすぎないものである。それを改めて思い出してほしい。つまり、いまだ本論ではこの定義を「真である」として正式に採用してはいないのである。もちろん、本論で唯物論者や無神論者を批判的考察の対象とする限り、唯物論や無神論、ひいては自然科学に根ざした考察を今後も行っていくので、結果的に唯物論者や無神論者の多数派と同じく「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動(の場である全身の肉体)」=「私」という定義を採用することになるかもしれない。しかしそれには、改めてその定義の妥当性を検証する必要がある。検証のやり方はこれまで同様、「私」あるいは「全身の肉体(神経系、感覚器官、運動器官、内臓器官等)」に関する科学的知見から仮説を構築し、仮説に準じた思考実験を行い、その結果に論理的整合性があるかをみる方法をとる。
その手始めとして、まずは上で挙げた“「全身の肉体」で「私」でない部分はあるか”という問題について考えてみる。要素還元主義は「対象を構成要素ごとに分解し細かく観察、分析することで全体の理解に至る」という考え方で、自然科学における最も基本的な理念の一つである。この考え方に則り、次のような思考実験を行ってみよう。
「全身の肉体」の一部である「腕」を切り落としたとき、「全身の肉体」=「私」であるなら、分離された「腕」も引き続き「私」であり続けるか?