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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
170/182

歴史の不在証明(57)

 本論では以前、「自らの死につながりかねない選択肢」=「死の選択肢」を自ら選んだ人たちの実例として「重火器を積んでいるかもしれない不審船を軽武装のみで立入検査した海上保安官や、原発事故直後の緊急作業に従事した人たち、紛争地帯の真実を伝えるため現地入りするジャーナリスト等」を挙げた。それよりも前の議論では、一時的にせよ「自分の命の価値がプラス無限大」(何ものにも代え難いかけがえのないもの)とは考えなかった人の実例として「地震で倒壊した家屋の下敷きになりながら、息子が圧死しないよう瓦礫を背中で支えながら絶命した父親や、吹雪の中、父が娘を凍死させまいと覆い被さり自身は凍死した日本国内の事例」を挙げた。これらは皆、もし「死と引き換えに」といった状況でなければ、前出の「マズローの欲求5段階説」でいうところの「社会的欲求」や「承認欲求」に由来する行動になっていたと思われる。それはすなわち、社会集団の一員としての使命を果たし(社会的欲求)、それが評価されることによって相手に尊重されたい(承認欲求)という心理が働いた結果、それらの欲求を満たすために起こした何らかの行動だった、ということである。ところが、その行動の結果「死ぬかもしれない」という事態になると、とたんに「社会的欲求」や「承認欲求」は有効な動機たりえなくなる。なぜなら、例え社会集団で評価され尊重されても、死んでしまえばその喜びを自分自身で味わうことができなくなるからだ。しかし、もし当人の持つ欲求の段階が「自己実現欲求」にまで昇華されていたならば、「例えそうだとしても自らの使命を果たす自分でありたい」と心から願うため、その結果「死ぬかもしれない」という状況下でも「社会的欲求」や「承認欲求」が有効であるかような行動をとる。


 以上が、上に挙げた自己犠牲的な行動の実例に対するマズロー流の説明である。ようは、自己犠牲あるいは利他的な行動(自分より他者を優先する行動)には「高次欲求」が大きく関わっているという仮説である。ところが、「高次欲求」が利他的な行動を発現させる大脳生理学的なメカニズムは、「低次欲求」の時と違って必ずしも明らかにされていない。というより、現在の大脳生理学においてマズロー的な「高次欲求」を実証するような研究はほとんど見られない(その代わり、別の内的動機付け仮説が用いられる)。にもかかわらず本論でマズローの「高次欲求」をもちだしたのは、新皮質が担う役割の説明として専門知識がなくとも直感的にわかりやすかったからである。とはいえ、マズローの仮説にたとえ難があろうとも、利他的な行動をもたらす(内的)動機付けを担う器官が新皮質であることには疑いがない。なぜなら、前述したような「低次欲求」の発生メカニズム、すなわち、脳幹や大脳辺縁系で生じる「生理的欲求」および「安全欲求」に由来する恐怖への心理的反応として「生存欲求」が生じるという仮説では、どうやっても利他的な行動が発現するプロセスを説明できないからである(もしできると思うなら是非試してみてほしい)。ところが、大脳内で「欲求」のような複雑な情報処理が可能な器官はもとより脳幹や大脳辺縁系、新皮質しか存在しないので、もし前者が利他的な行動の(みなもと)でないのなら後者の新皮質しか残らない。よって、利他的な行動の動機付けは新皮質で行われていると考えざるをえないのである。


 なお、「利他的」という時の「他」とは言うまでもなく他者を意味するが、上で挙げた利他的な行動の実例はその名が示す通り全て「他者との関係性」において起きている。「他者との関係性」の上でくり広げられる営みのことを一般に「社会」というが、その意味において、新皮質による利他的行動への動機付けに関する上の説明は、そのまま「生存欲求」に「社会的環境要因」が及ぼす影響についての仮説になっている。その「影響」を改めてここで整理しておくと、“通常、脳幹や大脳辺縁系、新皮質の連携で生じた「生存欲求」は利己的行動(自分の利益や都合のみを最優先する行動)の動機付けになりうるが、特殊な社会的条件下では新皮質で生じた利他的な動機付けによって利己的行動が阻害されることがある”となる。これは、死地からの逃避といった「生存欲求」を動機とした利己的行動を起こす時、その行為者は「私が死にたくない(他者がではない)」という心理状態にあると考えられるが、自らの社会集団(家族、国、地域社会、所属組織、職業集団など)が存亡の危機に陥ると、家族愛や愛国心のような感情の作用によって「社会集団への脅威を排除できるなら私が死んでもやむをえない」という心理に変化することがあり(利他的動機付け)、その場合は自ら利他的行動を選択するという、現実にみられる具体例を一般化した表現である。「マズローの欲求5段階説」は心理(欲求)から行動を説明する理論モデルであったのに対し、こちらは実際に観察された自己犠牲的な行動から心理を逆算したモデルである。そして、このモデルのことを「社会的環境要因仮説」という。なお、「社会的環境要因仮説」自体は、決して利他的、自己犠牲的な行動を説明するためだけの理論モデルではないことに注意されたい。ここでは詳しく説明しないが、戦場や飢饉といった生存競争的な「社会的環境」下では、「私が死にたくない」という心理から「生存欲求」による利己的行動が誘発されるという「社会的環境要因仮説」もありうる。


 以上、遺伝的要因と社会的環境要因が「生存欲求」にそれぞれどのような影響を与えるかをみてきたわけだが、遺伝的要因はもっぱら自身の死を恐れる心理を強化するものの薬剤等の物理的な作用によって死の恐怖を軽減もしくは無化することが可能であり、社会的環境要因もまた死への恐怖を強化するケースがある一方で愛のような心理的作用によって死の恐怖を軽減もしくは無化することが可能であることがわかった。ここで重要なのは、そのような心理変化を起こす物理的な作用、心理的な作用のどちらも(適切な薬剤や所属集団の存続危機といった状況を用意することにより)人為的な制御が可能という点であり、それを技術的に応用すれば「死を恐れない人間」を意図的に作り出すこともできるということだ。もちろん、あなた自身をそのような人間に改造することも可能である。しかも、精神科や心療内科などの医師の診断をきちんと受けて処方された「適切な薬剤」を使用するなら完全に合法であるし、「所属集団の存続危機」に対して鋭敏に反応する家族愛や愛国心、愛社心、郷土愛などを内心で強化するのは倫理的にも何ら問題はない。そうすることによって、いざという時にのみ「死を恐れない人間」になる(別に「死にたがり」を作ろうとしているわけではないのでそれで十分である)のは現在でも決して不可能ではない。ではなぜ、「私が死にたくない」と(おび)えるあなた(唯物論者)は今すぐ自分を改造して「死を恐れない人間」になろうとしないのか? それに一体何の不都合があるというのか?


 ……わかっている。それでもまだ納得がいかないという唯物論者もきっといることだろう。先ほど、死を恐れる唯物論者の心情を代弁して「私が死にたくない」と言ったが、議論の発端である、筆者の知人の唯物論者(自称)が最初に言ったのは「私が無くなるのが恐い」であった。「私が無くなる」と「私が死ぬ」は日常感覚的にはほぼ同義だが、厳密には、気を失って意識が無くなったり、酒や薬物で心神喪失するのは生きていながら「私が無くなる」状態だといえる。(くだん)の唯物論者(自称)は、どうもそのような状態が永続する、すなわち意識が無くなったり心神が喪失したままになってしまうことも恐れているようだった。そういう意味では、「私の喪失」と「私の死」は彼の中で決してイコールではないのだろう。よろしい。では、彼が失うのを恐れている「私」とは一体何なのかを改めて考えてみることにしよう。ただし、言葉としての「私」については前の議論すでに考察し尽くしたので、これから議論するのは「私」の物理的な実体についてである。


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