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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
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歴史の不在証明(56)

 上で、「私が無くなるのが恐い」という心理は「生存欲求」に由来し、「生存欲求」はさらに「生理的欲求」と「安全欲求」に由来すると述べた。この「生理的欲求」と「安全欲求」を前出の心理学者マズローは「低次欲求」と呼び、人間以外のすべての動物も備えていることを指摘した。それを前提に、彼は次のような仮説を提唱している。“動物(人間も含む)はまず何をおいても「低次欲求」を満たそうとするが、人間はさらに、集団に所属してそこで役割を得たいという「社会的欲求」を満たそうとし、それが満たされれば、次は、地位や名声を得て尊敬されたいと願う「承認欲求」を満たそうとし、最後に、自らが考える「本来あるべき自分」に近づきたいという「自己実現欲求」を満たしていく。”──これがいわゆる「マズローの欲求5段階説」である。彼はこの仮説において、満たされる順番が遅い欲求ほど「高次」であると意義づけ、中でも「自己実現欲求」を究極的な「高次欲求」とした(※)。大脳生理学的には、「低次欲求」が脳幹や大脳辺縁系に由来すると考えられたのに対し、「高次欲求」は新皮質(大脳の最も外側の器官。前頭葉や側頭葉、頭頂葉などから成る)に由来すると考えられている。この新皮質は「高次欲求」だけでなく言語機能や論理的思考も担っているが、我々の日々の活動全てが(睡眠時を除けば)言語と論理的思考を伴うことを考えると、それは現人類の活動全域にわたって新皮質が関与していることを意味する。そういう意味では、「死にたくない理由」の筆頭に「私が無くなるのが恐いから(他者がではない)」を挙げた回答を「無効」とした本論の先の議論に対し、“それは脳幹や大脳辺縁系に由来する「生存欲求」のみに依拠した主張であり、我々の生存活動全般に関与するはずの新皮質が一体どのように影響するのかを考慮していない点で不備がある”という唯物論者の批判ならば、批判それ自体としては成立しているといえよう。


(※)マズローは晩年、「自己実現欲求」までの欲求よりもさらに「高次」な、「超越」なる境地があるという仮説を提唱している。ただ、その仮説も含め彼の学説は全て弁証のみによって導かれたものであり、自然科学の見地からは批判的な意見が多いことにも留意が必要であろう。


 前に、脳幹や大脳辺縁系で生じる「生理的欲求」と「安全欲求」に由来する恐怖への心理的反応として「生存欲求」が生じるプロセスを「火災に遭遇し生命の危機に瀕した時」の具体例を使って説明したが、この説明における「恐怖」の発生に実は新皮質が関与している。「火災」の例で脳に最初に到達するのは熱や呼吸の阻害による苦痛といった感覚器官からの信号である。このような外部器官からの信号はいったん大脳辺縁系が全て受け取り、大脳辺縁系は速やかに「生理的欲求」(呼吸欲や苦痛回避欲など)に従って熱や呼吸阻害要因(煙など)が来たのとは反対の方向に脳幹を介して逃避しようとする。それにいったん制止をかけるのが新皮質で、大脳辺縁系が受信するのと同時に新皮質へ転送した感覚情報(熱や苦痛)から「煙に巻かれて呼吸困難になるかもしれない」「炎で火傷するかもしれない」といった推定を行い大脳辺縁系に差し戻す。この推定を引き金に、将来起こりうる「呼吸困難」や「火傷」を大脳辺縁系が脳幹と連携しながら疑似体験することで「生理的欲求」に由来する「恐怖」が生じる。同時に、新皮質は「呼吸困難」や「火傷」が実際にどの程度の確度で起こりうるかを推定(主観的確率評価)して「危険・予見不能・不安な状況に陥るかもしれない」という予測を、また、周囲の視覚情報や記憶から消防士等の救助が来る可能性がどのくらいあるかを論理的に推定して「誰の助けも得られないかもしれない」という予測を大脳辺縁系に差し戻す。今度はこの予測から「予見不能」や「助けが来ない」という状況を大脳辺縁系と脳幹が疑似体験して「安全欲求」に由来する「恐怖」が生じる。「恐怖」は身体行動を起こすための起爆剤的な動因(内的動機付け)となるため、大脳辺縁系と脳幹に速やかに作用して手足の筋肉やそれを補佐する循環器系に「逃走」行動を開始するよう信号を伝達させる。その際、新皮質は並行して最も生存可能性の高い逃走経路を推定し、それに沿った走行方向を大脳辺縁系に指示する。大脳辺縁系はそれに従い、脳幹を介して筋肉を制御し走行方向の補正を行う。これが、前の説明の時には省略した、新皮質が関与するプロセスの全体像である。


 では、なぜ最初からこのように説明しなかったか。それは、新皮質の関与部分を省略しようとしまいと、前に説明した際の結論に影響がなかったからである。その結論とは次のようなものであった:「生存欲求」の発生源は脳幹や辺縁系のような脳内の物理機構に求めることができ、そして、物理機構ならば物理的な作用によって干渉することが可能なので、「物理的な作用」を用いれば「生存欲求」を強制的に変化(具体的には軽減もしくは無化)させることができる。ここで、その際省略した新皮質の関与を改めて考慮したとしても、新皮質もれっきとした「脳内の物理機構」なので、“「生存欲求」を強制的に変化(具体的には軽減もしくは無化)させることができる”という部分は全く変わらない。変わるとしたら、せいぜい「脳幹や辺縁系のような脳内の物理機構」という部分が「新皮質や脳幹や辺縁系のような脳内の物理機構」に変わるぐらいである。実際、前の説明で「物理的な作用」の具体例として挙げた抗不安剤や抗うつ剤は、大脳辺縁系と脳幹、新皮質の全てに作用する。特に抗うつ剤は新皮質への作用が最も大きいといわれているが、これは投与した薬効成分が新皮質のみに到達するということではない。そうではなく、脳内に作用するような薬剤の成分は脳全体のあらゆる場所に到達するが、その中でもとりわけ新皮質において薬剤に対する反応が顕著というだけである。しかしその場合、新皮質以外の場所でも大なり小なりの反応は起きており、最終的な薬剤の効果はそれら全ての相互作用の結果として発現する。そして、前に説明した際の表現も実はそれをふまえたものになっている。例えば、「生存欲求」の発生源に関して「脳幹や辺縁系のような脳内の物理機構」という表現を用いたが、この中の「のような」という部分に新皮質や小脳、間脳といったその他の器官が入る余地を残している。前の説明では、その他の箇所でも同様の配慮がなされているので確認されたい。


 以上により、新皮質の影響を考慮すると、死に恐怖する理由を「私が無くなるのが恐いから」とする回答を「無効」とした本論の結論がかえって補強されることがおわかりいただけたと思う。しかし、新皮質の影響は決してそれだけにとどまらない。上で、マズローのいう「高次欲求」は新皮質に由来すると述べたが、「高次欲求」の中には「社会的欲求」が含まれていたのを思い出してほしい。前に、「生存欲求」が発現する様態が(遺伝的要因だけでなく)社会的環境、すなわち家族や友人、仕事や地域を通じた交流といった他者との関係からも影響を受けるという「社会的環境要因」仮説について述べたが、この社会的環境要因仮説において「社会的欲求」はその名の通り動因として大きな役割を果たすことになる。それだけでなく、より高次な「承認欲求」や「自己実現欲求」もこの仮説において「生存欲求」に多大な影響を与える。その影響は総じて「生存欲求」を抑制する方向に働くので、「私が無くなるのが恐いから」は死の忌避理由にならないとする本論の結論をますます補強することになる。


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