歴史の不在証明(55)
まず、遺伝的要因仮説とは上述したように、より原始的な欲求である「生理的欲求」と「安全欲求」に由来する恐怖への心理的反応として「生存欲求」が発露するという仮説である。それが「遺伝的」という名を冠しているのは、「生理的欲求」と「安全欲求」をつかさどる脳幹や大脳辺縁系が進化史において人類が登場するよりも前の生物によって獲得された器官であり、現人類はそれらを遺伝によって引き継いだことが科学的に明らかになっているからである。人間の行動や心理の起源を大脳の諸器官による物理現象(化学反応や分子機構)によって解明しようとする学問分野を大脳生理学(※)というが、この立場で遺伝的要因仮説による「生存欲求」を説明するなら、遺伝子という「設計図」に基づいて製造された生化学的な「機械」である大脳器官(脳幹、大脳辺縁系)が動作することによって実現される「機能」ということになる。
(※)最近は「脳科学」とも呼ばれることが多い。ただし、「大脳生理学」も諸外国では通じにくい日本独特の呼び名であるが(「神経生理学」なら対応する外国語もあるのだが)、「脳科学」は日本人同士ですら意味するところが必ずしも明確ではない不完全定義語であることに注意が必要だろう。
このように人間の活動を工学的な機械の動作と同一視する立場を「人間機械論」と言うが、これこそまさに唯物論者や無神論者が「自己」や生命を理解するために生まれたパラダイムといえよう。我々の先達はこの立場から人機一体の研究を推し進め、1940年代に「サイバネティクス」という学問分野を確立させた。そしてサイバネティクスはコンピュータ制御の黎明期において基礎理論となり、今も我々に多大な恩恵をもたらしている。このことから、現代の自然科学において「人間機械論」は決して傍流の思想ではないということがおわかりいただけるだろう。
そのような立場から、筆者の知人である、前出の唯物論者(自称)が「私が無くなるのが恐い(他者がではない)」と感じた理由を説明するなら、単に「そのように作られたからだ」ということになる。より厳密な表現をするなら「そのように設計された機械(身体)の各部品(器官)が動作した結果、それぞれの動作が相互干渉しあって“私が無くなるのが恐いと感じる”という物理現象を発生させた」ということになるが、大意としては同じことである。いずれにせよ、「そのように」作られたのなら、もし「そのように」作らなければ「私が無くなるのが恐い」と感じることもなくなるのかといえば、通常の機械工学同様に考えることができるので「その通り」ということになる。また、現状は「私が無くなるのが恐い」と感じる機械(身体)であったとしても、通常の機械同様に設計を変更し、それに合わせて部品(器官)を交換したり、改造する等によって「私が無くなるのが恐い」と感じさせなくすることが可能なのかといえば、それについても「その通り」ということになる。さらに言うなら、そのような身体の設計変更や改修は決して未来の技術ではなく、すでに人類は経験済みである。1940年代盛んに行われた、自傷他害の恐れがある精神疾患の患者の脳の一部(前頭葉)を切除する手術がその最古の試みといえるだろうが、「ロボトミー手術」と呼ばれたこの施術は自傷他害の発作を抑えることには成功したものの、無気力になったり他の脳機能障害を引き起こすといった回復不能なダメージを患者に与えたため現在では禁止されている。現在の我々からすると、前述したような神経細胞の軸索からなる複雑精細なミクロレベルの情報処理ネットワークを細胞のスケールで見れば超巨大といえるメスで切り裂くなど、ネズミを駆除するのに核爆弾を使うぐらい馬鹿げた行為なので禁止は当然なのだが、脳医学におけるこの負の遺産は、同時に「物理的な作用によって人間の心理を強制的に変化させる」のが可能であることの証明になっていることもまた事実である。なお、現在も「物理的な作用によって人間の心理を強制的に変化させる」ことは必要に応じ随時行われているが、もちろん今は「物理的な作用」の手段としてメスのような超マクロスケールの器具が使われることはない、その代わりに、特定の目的を果たすようミクロレベルで構築された分子機構がもっぱら用いられる。この分子機構のことを「薬剤」と呼ぶが、それは、我々が日常的に服用しているあの「薬剤」のことである。もしかしたら薬の効果を「物理作用」というのに多少違和感があるかもしれないが、体内で薬剤が引き起こすのは特定の化学反応や分子運動というれっきとした物理現象であり、その作用を指して「物理作用」と言うのは全く理にかなっている。そのような「薬剤」による心理変化の具体例としては、日常生活に支障をきたすほど「私が無くなるのが恐い」という心理が亢進し過ぎた時(臨床上は「タナトフォビア」という)に医者から処方される抗不安剤や抗うつ剤の効果が挙げられる。ところでこの事例は、これらの薬剤が「タナトフォビア」の軽減や解消に効果があるのなら(もちろん効果があるから処方されているのだが)、現在あなたが「私が無くなるのが恐い」と感じていたとしても投薬という「適切な処置」を受けることによって無化することが可能だということを意味していることにお気付きだろうか。
なぜそうなるのかを改めてここで整理すれば次のようになる。唯物論的な視点に立つなら、「私が無くなるのが恐い」という心理は脳幹や大脳辺縁系といった物理器官の相互作用によって生じる「生存欲求」に由来するものであり、言い換えれば物理現象である。その物理現象は実体としては化学反応や分子機構であり、それ自体はありふれたものであって何ら特別ではない。なぜなら、自分以外の他人の体内でも全く同じ現象が生じており、他の生物や、ものによっては大気や海中といった自然環境下でも全く同じ現象が起きているからである。にもかかわらず「生存欲求」の対象が自分限定(他者ではなく自分だけの生存を望む)なのは、脳の各器官が実現する複数の欲求による相乗効果に寄るところが大きい。ここで、各器官が担う個別の欲求自体は遺伝子の指示による部分が大きいので変更は困難であるが、それらの「相乗効果」たる「生存欲求」は、後天的に生じた大脳生理学的な複合欲求なので「薬剤」による生化学的な介入で結果を左右することができる。それを利用して、抗不安剤や抗うつ剤により「(自分限定の)生存欲求」を弱化もしくは無化することが可能となる。以上によって、最初に宣言した通り「唯物論的な視点」に立つのなら、「(自分限定の)生存欲求」を無効化できることは必然的な前提となる。ならば、唯物論者であるはずの者が「私が無くなる」のをいたずらに恐れているのは実に不合理である。
というわけで、筆者が最初に発した「あなた方は、なぜ死を恐れるのか?」という問いに対し「私が無くなるのが恐いから」という理由を一番に挙げた人については、その解決法を知らないがゆえに勘違いしただけであり、答えについては「無効」ということで良いだろうか? もちろん、これだけ解いてもなお「良くない」と答える唯物論者がいるであろうことは私も承知している。ではその人達に合わせ、今少しここでの議論を深めていくことにしよう。