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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
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歴史の不在証明(54)

 そこでさっそく、唯物論者や無神論者が「人として生きている」とみなす物理現象が一体どのような要件を備えているのかを考察したいところではあるが、その前に、この問いの立て方自体が間違っているという意見があったので紹介しておこう。その意見は、筆者の身近にいる唯物論者(自称)に本論の概略を説明した際反論として出されたものである。彼(いわ)く“私が恐いのは「私」が無くなることであって、もし無くなるのが無関係な「他人」なら気の毒には思うが恐怖は感じない。この場合の「私」と「他人」は物理的に見れば同じ「神経系による情報処理活動」なのだろうが、重要なのはそこではなく「自分」か「自分以外(他者)」かという主観の問題だ。主観を扱うのは哲学や心理学の分野なのに、それを「物理現象」云々で語ろうとする時点ですでに大きくズレている。”


 本論では以前「自己」の定義について議論した際、哲学や心理学のような専門分野における「自己」の定義は「(個人や社会に改善をもたらすという意味での)有効」でないと述べた。同時に、その意味での「有効」たりうるには、日常感覚で理解し自己の行動を変容させるのに資する定義でなくてはならず(なぜなら行動の変容は個人や社会を改善するための必要条件だから)、そのような定義は「完全」(意味が一意的)であらねばならないとも述べた。そして、そのような「有効性」重視の姿勢は本論が功利主義をとっていることによる、というのが以前の議論における大筋であった。上で唯物論者(自称)が筆者への反論に用いた「私」や「自分」という語の定義も、以前の議論における「自己」と同じく「不完全定義」である。したがって、彼の反論もまた本論において「有効」ではないと即座に退けることは可能だ。ただ、彼に話した概略では本論における「有効性」や定義の「完全性」まで事細かに説明することはできなかったので、彼の反論がそれらをふまえない主旨になったのは筆者の側にも非があったことは断っておく。


 とはいえ、読者の中にも彼と同じように「私が無くなるのが恐い(他者がではない)」と感じ、それが「死にたくない」=「生きたい」という欲求につながっている人が少なくないと思われるので、この問題はもう少し掘り下げて(本論なり)のけりを付けておくことにする。なぜならそのような人は、いずれ「生きたい」という生存欲求が満たされなくなることに不満や不安を感じ、それが高じて恐怖になった場合その感情が「死の恐怖」の源泉だと考えるようになるからだ。しかしそれは「私が死ぬのが恐いのは(いずれ)私が死ぬからだ」という何の説明にもなっていない考えである。その指摘に対して「説明になっていようとなかろうとそうなんだから仕方がないじゃないか」と思う人もいるだろうし、その気持ちもわからなくはないが、ここで考えたいのは「なぜ他の誰でもなく、私が死ぬのを恐いと思うのか」「なぜそこまでして自分を絶対的に死守しようとするのか」である。その理由を知ったとしても、必ずしも死の恐怖が軽減されるとは限らないが、今後も恐怖に従った言動をすべきかどうかについては考えが変わるかもしれない。


 人間が「自分を絶対的に死守しようとする」のは「自己保存の本能」によるとされている。前出の辞書(https://dictionary.goo.ne.jp/)によれば、「自己保存」とは「生物が自分の生命を保存し発展させようとすること。」であり、「本能」は「動物個体が、学習・条件反射や経験によらず、生得的にもつ行動様式。」という意味だそうだ。「自己保存の本能」という言葉自体は17世紀から哲学の分野で使われるようになり、19世紀ごろ、主に心理学において厳密な定義がなされた。その当時は、上記した定義を持つ「本能」という語が使われたことからもわかる通り、人間の遺伝子に「ロボット3原則」よろしく「人間は自己を守らねばならない」という命令コードが書かれていると思われていたふしがある。これは、人間の心理を物理的機構の一種として説明しようとする最初の試みであったかもしれない。現在は遺伝子の物理的な実体であるDNAにそのような命令は書かれていないことが明らかになっているが、物理機構として心理を探求する試みの系譜としては、大脳の脳幹や辺縁系といった部位で生じる複数の欲求が合わさって「自分を絶対的に死守しよう」という心理反応が生じるとする仮説が主流となっているようだ。具体的には、例えば火災に遭遇し生命の危機に瀕した時、脳幹や大脳辺縁系で生じる「生理的欲求」のカテゴリに含まれる呼吸欲や苦痛回避欲から「煙に巻かれて呼吸困難になるかもしれない」「炎で火傷するかもしれない」という恐れが生じ、同時に、「安全欲求」のカテゴリに含まれる安全・安定・安心を求める欲求や強いものに庇護されたいという欲求から「危険・予見不能・不安な状況に陥るかもしれない」「誰の助けも得られないかもしれない」という恐れが生じる。それら複数の恐れが度重なる心理的刺激となり、それに対する反応として「火災現場からの逃避」という行動が誘発される。それ以外の場面でも、状況に合わせて「危害を加える相手への反撃」「炎暑下で水分を摂取する」「治安の悪い地域に立ち入らない」といった行動が複数の恐れから誘発される。それらの行動は、直接的には「生理的欲求」と「安全欲求」に由来する恐れが引き金となっているが、もともと「自分を絶対的に死守しよう」という目的(心理)があったために「引き金」が機能したと考える方が因果関係として理解しやすい。つまり、誘発された行動は皆「自分を確実に守るための行動だった」という解釈だ。心理学の分野ではマズローという学者が最初に「生理的欲求」と「安全欲求」という欲求カテゴリを提唱したが、後にアダルファーという学者が2つを統合し「生存欲求」として再カテゴライズした。それをふまえて「自分を絶対的に死守しよう」という心理を「生存欲求」に読み替え、その発生源を脳幹や辺縁系のような大脳内の物理機構に求める、というのが大脳生理学に根ざした現在の仮説である。


 ただし、大脳生理学的な機構による「生存欲求」の説明は心理学における主流仮説ではなく、どちらかというと弁証のみによって「生存欲求」の発現メカニズムを説明することの方が多い。とはいえ、「生存欲求」についての仮説はどれも未だ完全には実証されていないので、現時点においてはどれが正しいということはない。ただ、ここでの批判的考察は唯物論者や無神論者を対象としているので、物理的機構を使った大脳生理学的な仮説の方が彼らにとって理解しやすかろうという事情はある。そのため、便宜上ここでは大脳生理学的仮説をベースに議論を進めることを理解されたい。もっとも、大脳生理学的な仮説が「自己保存の本能」といった伝統的な心理学的仮説を全否定しているかといえばそうではなく、むしろ前者が後者を補完した事例もある。例えば、知性をもった霊長類として人類が進化する以前に備わったのが「生存欲求」(あるいは「自己保存の本能」)であるという心理学において伝統的に支持されてきた仮説、言い換えれば、今ある「生存欲求」は進化上の祖先である生物から遺伝的に受け継いだものだという仮説は、「生存欲求」に包摂される「生理的欲求」と「安全欲求」を担う脳幹や大脳辺縁系が進化系統上、霊長類登場以前の哺乳類(ネズミ類や牛馬の祖先等)や爬虫類の時代に登場したことが遺伝学上確かめられるという事実によって支持されている。近年は、そのような遺伝的要因仮説だけでなく、「生存欲求」が発現する様態が社会的環境(家族、友人、仕事や地域を通じた交流といった他者との関係)からも影響を受けるという仮説についても、大脳生理学的なアプローチによって盛んに検証されるようになった。以下では、これら遺伝的要因と社会的環境要因がそれぞれ「生存欲求」にどのような影響を与えるのかを考察する。


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