表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
165/182

歴史の不在証明(52)

 さて、唯物論者や無神論者に向けて私が発した、「あなた方は、なぜ死を恐れるのか?」という最前の問いに戻ろう。なお先ほども述べたように、ここで想定する「唯物論者や無神論者」は、いざ自身が「死の選択肢」を迫られたら怖気(おじけ)づいてしまうかもしれない(私自身のような)「普通の人」に限られる。もちろん、唯物論者や無神論者の中には「死の選択肢」に全く怖気づかない人もいるだろうが、そのような人は最初から対象外とする。なぜなら、(繰り返しになるが)ここでの批判的考察の目的が「生をより善きものにする」ことであり、具体的には、社会や個人のために「死の選択肢」の実行が必要な場面において極力「死への恐怖」が妨げとならないよう何らかの「改善」を模索することだったからである。ならば「死の選択肢」に怖じ気づかない人にはそもそも「改善」が不要であり、批判的考察をする必要もないということだ。


 「普通の人」たる唯物論者や無神論者が死に恐怖する理由であるが、「普通」であるがゆえに、彼ら以外の人々とそう変わらないことが推察される。ただし、その理由に対する解釈と対処法については、彼ら固有の信条によって特異なものとなる可能性に留意すべきだろう。とはいえ、理由が同じであるのなら、再び看護学生と医学生を対象とした「死にたくない理由」のアンケート結果の報告論文(https://i.kawasaki-m.ac.jp/mwsoc/journal/jp/2007-j16-2/22_sekido.pdf)を援用し、前に本論で議論した際の結果を適用しても差し支えないと思われる。すなわち、「自己の消滅」以外の全ての「恐怖」(治療で受ける苦痛や屈辱的扱い、病気や怪我の痛みや苦しみ、死を直視せねばならない精神的苦痛、不遇な人生となったことへの怨嗟、孤独な状況での死、家族や世間に負担や迷惑をかけることに対する恐怖、人生に対する未練や後悔、死後どうなるのか不可知であることへの恐怖、生前犯した罪の罰を死後受けるのではないかという恐怖)については、全て何らかの補償(金銭的補償だけでなく非金銭的補償も含む)が可能であるため軽減もしくは解消することが可能という以前の結論を、以下で批判的考察を行う際の前提にするということである。したがって、「普通の人」としての唯物論者や無神論者が直面し、かつ克服すべき究極の恐怖もまた「自己の消滅」ということになる。


 以前の議論では、一般に「自己の消滅」と言った場合、「自己」の定義が不完全であるため論理的な考察が著しく困難となった。その際の「不完全」とは「意味が一意的でない」(=意味が一通りに決まらない)ということであったが、実際、「自己」という語の日常的な用法を参考に(自分の)「内心」、そして(自分の)「精神」と言い換えを行って完全な定義に少しでも近づけようと試みたものの、「精神」の定義が「1 人間のこころ。また、その知的な働き」「2 物質に対し、人間を含む生命一般の原理とみなされた霊魂。たましい。」という両義性を持っていたため、本論で想定する限定的な条件下ですら意味が「一意的」にならないという困難が生じた。具体的には、「自己の消滅」というと一般的に当人の心や「知的な働き」(上記1の定義)が失われることを指すと思われたが、もしその人が神秘主義者であった場合は「自己」に「霊魂」や「たましい」の意味(上記2の定義)も含まれると考えられ、そうなると「霊魂」や「たましい」という語自体が定義不完全である(同じ神秘主義者であっても教義や流派によって解釈が分かれる)ため、結局本論では「自己」=「精神」の意味を「一意的」に決めることができないという事態に陥った。しかし「自己」の意味が一意的でないままでは「自己の消滅」に対する金銭的補償額の算定が極めて煩雑になるため、あるいは本論の功利主義的な立場から、以前の議論では便宜的に「1 人間のこころ。また、その知的な働き」の意味を、その中でも特に(自分の)「知的な働き」を「自己」の定義として採用した。


 上のような成り行きを改めて俯瞰(ふかん)してみると、どうも神秘主義者(超自然的な力を持つ神を信仰する信者も含む)にも当てはまるよう一般化された議論(=普遍的な議論)に終始したことが、「自己」という語の定義不完全性を招いたという構図があることに気付く。そのくせ最終的には「知的な働き」という、神秘主義的なニュアンスが最も希薄な定義を採用している。もちろん採用理由は金銭的補償額算定のため、あるいは功利主義的立場からといったものであり、決して恣意的なものではなかったが、そもそも本論が一貫して功利主義的な立場をとっていることが神秘主義との関係を希薄にしたことは否めない。功利主義というのは成立当初から「効用」という計算可能な基準(可算指標)を最大化しようという立場であり、本論で「自己の消滅」の金銭的補償額を算定しようとしたのも実は功利主義的な文脈上での話であった。したがって、上述した「採用理由」は全て功利主義に還元される。また、功利主義は可算指標を算術的に取り扱いつつ結論に達するという点で、科学と方法論を同じくする思想である。つまり功利主義はもともと「科学寄り」な思想体系なのである。そして、科学は神秘主義と相容れない部分が最も多い学問体系なので、それに近い功利主義もまた神秘主義とは関連の薄い結論を導きやすいということだ。逆に、唯物論者や無神論者は実態として科学主義を信条としている人が多いため、以前採用した「知的な働き」という「自己」の(功利主義による)定義は、結果的に唯物論者や無神論者寄りの定義となった。


 しかし本論の基本的立場である功利主義が科学と近しいからといって、最初から神秘主義を排除したのでは本論の正当性に疑義が生じる。なぜなら、本論の目的は「(個人や社会に改善をもたらすという意味での)有効性」を実現することであり、ここでいう「社会」の構成員には当然ながら神秘主義者も含まれるからである。だからこそ、ここに至るまで神秘主義者や特定宗教の帰依者も必ず議論の対象にしてきたし、それは今後においても変わらない。ただ、「死への恐怖」に対する批判的考察という今の局所的な論点においては、まずは「死を恐れる唯物論者・無神論者」を考察の対象とすべしという立場をとっている。ここでの局所的議論では対象者を(1)「死を恐れない唯物論者・無神論者」(2)「死を恐れる唯物論者・無神論者」(3)「死を恐れない神秘主義者・特定宗教の帰依者」(4)「死を恐れる神秘主義者・特定宗教の帰依者」(5)「死にたがり」に分け、この内(2)(4)(5)のみが批判的考察の対象となることを理由とともに示した。その上で、(2)「死を恐れる唯物論者・無神論者」に関して批判的考察を行うことで、その結論を(4)(5)にも援用できるという展望を示した(※)。したがって、現状は一時的に考察対象が唯物論者と無神論者に限定されている状況である。


(※)とはいえ、(2)の考察結果が(5)にも援用できるという根拠は今のところ十分に示されたとは言い難い。よって(2)の考察の結論部で改めて議論する。


 その上で、唯物論者と無神論者にとっての「自己の消滅」が何を意味するのかについてここで改めて明らかにしておきたい。この場合「自己」は「(自分の)知的な働き」とも言い換えられるが、唯物論者と無神論者にとって「知的な働き」という表現は完全な定義が可能であり、それに相当する物理的実体も極めて明確である。その物理的実体については、すでに「自己の消滅」の金銭的補償額に関する以前の議論の中でも明確に示した。すなわち、「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」である。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ