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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
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歴史の不在証明(49)

 それでは、「死の選択肢」を実行することに対する金銭的補償の妥当な価額を算定するにあたり、さしあたって我々がすべきことは何だろうか。


 それに必要なのは、まず「どのような時に価額が決定されるか」を考えることである。価額(値段)が決まるということは、市場において需要と供給が一致したことを意味する。ここでの想定では、「死の選択肢」の実行を求めている「社会」は需要者であり、求めに応じる「個人」は供給者である。そう考えると、需要者が提示する購入価格の上限も(おの)ずと決まってくる。今日(こんにち)の日本社会において、特定個人の死亡に対し責任のある者(多くは加害者)が支払う賠償額の上限はだいたい5000万円~1億円強とされる。この金額は故人の職業や年齢、病歴の有無、死亡の経緯(事故、病死、故殺)等によって変動するが、ほとんどはこの範囲内に収まる。比較的年齢の若い高額所得者が死亡した場合にこの範囲を超える賠償金が支払われたケースも何件かあるようだが、それでも10億円を超える事例は見られない。もちろん、この範囲は当該の社会(国や地方政府)が持つ制度や歴史、慣習によって変わりうる。しかし「現在の日本で」と限定するならば、上述したような実情から、需要者(社会)が提示できる購入価格の上限は10億円未満と考えてよいだろう。


 一方、求めに応じて「死の選択肢」を実行する供給者(個人)が提示する販売価格は、ここまで度々述べてきたようにプラス無限大が上限である。これは、どんな代償を提示しても「死の選択肢」の実行を拒む者がいることから合理的に推定される。平素の彼らは、求めに応じた結果死ぬ可能性がある代わりに(購入側の価格上限を明確に上回る)十数億円が事前に支払われるという想定の話であっても、常に「本当に死ぬ可能性があるならお断り」という姿勢を崩さない。ところが先述したように、そう言っておきながら自身が置かれた状況が変われば、例えば家族が命の危機に瀕したり精神疾患を発症したりすると、今度は求められてもいないのに自ら死地に飛び込むということが起こりうる。そうなると、少なくともその瞬間は「販売価格」がプラス無限大から有限値に値下がりしたと考えられ、しかも有限値が10億円未満であるならば需要者(社会)側が支払う意思のある「購入価格」と見合うので取引が成立することになる。これで当初の懸案であった、死を極端に忌避する人々が社会の「有効性」を害するという問題を解消する目星がついた。したがって、「死の選択肢」を確実に実行させるための補償額は、現在日本においては「10億円未満」である。


 と、言いたいところなのだが、この「10億円未満」という価格は現実での運用において非常に使い勝手が悪い。そもそも価格といいながら、「未満」という語が末尾に付くことで価額が一意に確定しないのが致命的である。この「未満」は「時と場合によって価格が変動する」ということを意味しているが、変動する原因は「死の選択肢」を実行する個人の「属性」と「状況」にある。「属性」は、もっぱら補償金を支払う需要者(社会)が補償額の算定において考慮する条件であり、具体的には居住地や職業、年齢、病歴等である。この条件が異なれば、算出される補償額も変わってくる。「状況」は供給者(個人)が承諾可能な補償額を算定する上で考慮する条件であり、具体的には「命を賭けてまで守りたいモノ(家族の安全など)があるか」であったり健康状態(精神疾患を発症してないか)等である。これも「状況」が異なれば、供給者側で承諾可能な補償額が大きく変わる。そして、上の例での「10億円未満」というのは需要と供給が一致した際の取引価格なので、その変動条件は需要サイドの「属性」と供給サイドの「状況」が合わさった複合条件となる。そうなるとあまりにも複雑すぎて、事前に全ての条件に応じた価格の組み合わせを用意することが現実的に不可能となる。これをもう少し日常感覚的に表現し直すなら、「死の選択肢」を実行して欲しい対象が「どんな状態の誰なのか」(「属性」と「状況」の複合条件が指し示すもの)を前もって合理的に予測することができないので、その人への補償額も事前には確定しない。これは膨大な人間(万単位以上の)が所属する「社会」にとってはゆゆしきことで、金額が確定しなければ予算が付けられず、予算が付かなければ人が動けないので何も進まなくなる。しかし「どんな状態の誰なのか」が確定してから補償の予算立てや人繰りをしたのでは、誰かが「死の選択肢」を実行せねばならないような切迫した場面においてはとても間に合わない。よって、いずれの場合であろうと「死の選択肢」は結局実行されない。つまり、ここでの「10億円未満」という価額は、現実的な場面では役に立たない「絵に描いたモチ」ということだ。しかも価格が有限値となるタイミングがいつ訪れるかを予測することは誰にもできない。なぜなら、家族がいつ危機に遭うか、自分がいつ精神疾患を発症するか等の個人的な「状況」の変化は供給者(個人)本人であっても予想できないからだ。にもかかわらず価格が有限値になる時機を逸すれば再びプラス無限大に跳ね上がってしまう。そして、「状況」としてはそうであることの方が多いという困難すら付きまとっている。


 「10億円未満」というのは、一見すると「10億円」という金額が日常感覚的には高額なのでネックになりそうにも思えてしまうが、実は「未満」が意味する予測不能な変動性の方がはるかにタチが悪い。それでも、とかく「命の値段」という話になると「人命は地球よりも重い」といった美辞麗句を前に思考停止することが多い中で、「時と場合」さえ合致するなら金銭的な取引すら可能ということを示し、その際の価格帯を提示してみせたことには一定の意義があったと思う。しかし、社会の「有効性」を継続的に達成するため「死の選択肢」を実行する人々を安定的に供給していくには、やはりこれまで避けてきた論点を俎上に上げる必要があるだろう。ここまでは、「死につながりかねない一切の選択肢の実行を拒む」という人々の行動から、彼らが「自分自身の命の価値をプラス無限大と考えている」と推定してきた。しかし、その「プラス無限大」という評価は意外に堅牢でなく、「状況」が変われば容易に有限値に転落することも先の議論から明らかになった。有限の価値ならば金銭的補償が可能なので、補償と引き換えに「死の選択肢」を確実に実行させる方法を模索したが、いつ有限値に転化するのかが事前に予測不能であるため極めて困難という結論に至った、というのがこれまでの流れである。ならばいったん視点を変えて、今まで問うてこなかった、「自分の命の価値がプラス無限大」という評価の妥当性を疑ってみても良いのではないか。つまり、有限値に転化するどころか、そもそも「プラス無限大」という価値判断自体が何らかの論理的矛盾を含む誤謬なのではないか、ということだ。


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