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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
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歴史の不在証明(47)

 では、プラス無限大の対価を支払ってまで自分自身の「経験や思弁」を購入しようとするのが人間一般に見られる行動といえるだろうか。もちろん、プラス無限大の貨幣を調達することなど現実には不可能なので、実際にプラス無限大の価格で自身の「経験や思弁」を購入した例が存在しないことは容易に断言できる。しかし、ここで問われているのはそういうことではない。本論で以前、「予想損失」がプラス無限大というのは「例え何がどうなろうと絶対に弁済することが不可能」という人間の心象だと述べたのを覚えているだろうか。それと同様に、ここでのプラス無限大の価格も「例え何がどうなろうと絶対に手に入れたい(あるいは失いたくない)」という人間の心象である。その心象が行動に転化した際、先述したように「死(自身の「精神」の喪失)につながりかねない選択肢の実行を一切拒む」という形で具現化するのである。


 この行動に関して、私は「選択肢の実行を一切拒む」当人が恐れているのは自身の「精神」が備える「機能・能力」の喪失だという仮説を提示したが、上で挙げた(想定した)1人目の反論者は、恐れているのは「精神」に蓄えられた「経験や思弁」の喪失だという対立仮説を提示した。この2つの仮説のうちどちらに妥当性があるか、というのがここで問われている論点である。その答えを導くため、次のような状況を考えてみよう。今ここに、まさに殺されようとしている者がいたとする。彼に対し「自身に関する一切の記憶を失うが、それに同意するなら命を助けよう」と提案したなら、果たして彼はこの条件を呑むだろうか? もし「1人目の反論者」が正しければ、記憶を失う、すなわち「経験や思弁」の喪失は死と等価である。したがって、助命されても実質的に死ぬのと変わらないため彼は条件を呑まないだろう。しかし、世の大半は本当にそのような判断を下すだろうか。この思考実験と同じ状況があなたの身にも生じたと考えてみてほしい。そこで、あなたは本当に「記憶を失うくらいなら死んでいい」と考えるだろうか。それよりも、散々悩んだあげく結局は「命が助かるなら……」と条件を飲む、という方がより現実味があると言えるのではないか。


 しかし、この状況設定だけであれば、「生きてさえいれば失った記憶を取り戻せるかもしれない」と考えた結果条件を飲んだのかもしれない。ならば、記憶に相当する脳の部位だけを切除される場合(現在の技術では不可能だが、もし可能だったとして)、これは、過去の記憶が永久に失われること以外は全ての脳機能が今まで通りという事だが、そのような不可逆的な記憶喪失を施されるとしたらどうか? それでもなお、「生きていたい」と考える人の方が多数派であるように筆者には思われる。一方、命と引き換えに「精神」の「機能・能力」を奪われる場合を考えてみると、情報を処理する活動ができなくなるため、例え「経験や思弁」が残っていたとしてもそれは単なるデータに過ぎなくなる。そのような状態の人間は、質問に対しては記憶にある限りを機械的に答えるものの自発的に判断や推論を行うことのない、いまだ発展途上段階にある現状のAIのような存在となるだろう。この場合は、「そんなモノになるくらいなら死んでもいい」と考える人が、少なくとも記憶を失う場合に比べれば多くなるように私には思えるが、あなたはどうだろうか。もしそれに同意してもらえるなら、私の仮説の方に妥当性があると感じられるだろう。


 ただし、私は「経験や思弁」が失ってもかまわない無価値なものだと述べているのではない。実際、上の思考実験で記憶の喪失と引き換えに助命を選択するのが「散々悩んだあげく」だと述べているのは、「経験や思弁」が悩むに値する貴重なものだと認めているからに他ならない。比較の問題で考えれば「機能・能力」が優先はするが、そもそも私は「精神」の「機能・能力」と「経験や思弁」を切り離して考えることができないものと考えており、最初に自説を提示した際に言及した「機能・能力」も、当然ながらそれに「経験や思弁」が付随すると想定していた。しかしながら、そのように「機能・能力」と「経験や思弁」を一体と考えた上でも、その価値はプラス無限大とまでは言えない、というのが私の査定である。もちろん、上述したように自分自身の「経験や思弁」は他人のものよりも明らかに価値がある。同様の理由で、自分自身の「機能・能力」の価値も他者より優越すると考えられる。しかしそれを入れてもなお、自身の「精神」の「機能・能力」および「経験や思弁」の価値は有限にとどまる(=プラス無限大ではない)と考えている。もしそれが正しければ、死を極度に恐れる人間の「死につながりかねない選択肢の実行を一切拒む」という行動が、実はそれほど徹底されていないという事実が観察されるだろう。そしてその事実は実際に観察されるのだが、それについて詳しく説明する前に、2人目の反論者に対する再反論を先に片付けておこう。


 2人目の反論者が主張する「シンギュラリティは到来しない」という将来予測について筆者は否定も肯定もしない。なぜなら、将来予測とはもともと「この先どうなるかわからない」という不確定な事柄についての言及だからである。一方、この反論者は「到来しない」という将来予測を前提に自論を展開し、その結果「(筆者の)査定は間違っている」などと確定的な結論を導いている。不確定な事柄への言及(将来予測)を前提にする限り、どこまでいっても不確定な結論しか得られないにもかかわらず、である。したがって、この反論には論理的矛盾があり論じるに値しない。しかしそれを言うなら、筆者の側も「シンギュラリティの到来」を前提としてAIの開発投資について述べているではないかと再々反論されるかもしれない。しかし、本論において「シンギュラリティの到来」を見越しているのは筆者ではなく(話中に登場する)投資者である。しかも彼らは「シンギュラリティは到来しない」というリスクも念頭に置いた上で、あえて「到来する」に賭けているのであり、決して「到来する」を前提としているわけではない。


 再反論としては以上であるが、反論者がなぜ「シンギュラリティは到来しない」という確信を持つに至ったのかについては非常に興味深く思っている。おそらく確信の背景には彼らなりの「シンギュラリティ」の定義があると思うのだが、様々なシンギュラリティ否定派の主張を調べてみると、どうやら彼らには、人間の「自我」や「意識」というのはコンピュータの情報処理や自然現象で普遍的に再現することのできない「特別な現象」だという共通認識があるように思える。したがって、彼らにとっての「シンギュラリティ」とは「特別な現象」の再現であり、ならば、既存の技術や理論の延長にすぎない現在の「特別でない」研究開発を続けたところで到底実現できるとは思えない、と考えているようだ。筆者が興味深く思うのはこの「特別な」という考え方で、どうもそれは、自身の「精神」の価値をプラス無限大と査定する人達の考え方と共通する思想基盤を持っているように思えるのだが、彼らが考える「特別」とは一体何なのかについても、プラス無限大を過大評価と考える自説を披露する中で後述することになるだろう。


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