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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
159/182

歴史の不在証明(46)

 以上により、ようやく「精神」に関する完全な定義が得られた。なお、繰り返しになるが「人間のこころ」や「霊魂」「たましい」といった、その他の不完全な定義を本論は決して否定するものではない。それらの定義は、哲学や心理学、あるいは宗教や神秘主義においては相変わらず重要な定義であり続けるだろう。ただ、一意的ではないため本論での功利主義による議論には適さないというだけである。


 さて、「精神」の完全な定義として「(人間のこころの)知的な働き」を採用するにあたり、今後の議論のために「知的」という語の定義も確認しておこう。ここまで使用してきた辞書によると、「知的」とは「1 知識・知性の豊かなさま。また、知性の感じられるさま。」「2 知識・知性に関するさま。」だという。ここでまた「知識」「知性」という2つの語が出てくるが、「知識」の方は、同じ辞書にある「ある事柄などについて、知っている内容」という定義で十分と思われる。一方、「知性」は同辞書によると「1 物事を知り、考え、判断する能力。人間の、知的作用を営む能力。」「2 比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能によって、感覚的所与を認識にまでつくりあげる精神的能力。」とのことだが、文中にある「物事を知り、考え、判断する能力」「比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能」という部分は、我々が知る「情報処理」の機能・能力を容易に連想させる。また、「知識」は「情報処理」が扱う対象物でもある。以上をふまえると、「精神」という語が意味する物理的実体が極めて明快となる。すなわち、もっぱら医学や生物学では「精神」を人間の脳を中心とした神経系による活動だと考えることが多いが、上の「知識」「知性」による定義を前提とするなら、「精神」とは神経系による活動一般ではなく、中でも特に「情報処理」を行う活動を指すことになる。


 死によって自己の「精神」が消失することを恐れるあまり、死につながりかねない選択肢の実行を一切拒む人は「精神」の評価額をプラス無限大と査定していると前に述べた。その「精神」の物理実体が「人間の脳を中心とした神経系による情報処理活動」だとわかった今、改めてこの評価額が妥当かどうかを検証しよう。ここでの「情報処理活動」の具体例は「物事を知り、考え、判断する能力」「比較・抽象・概念化・判断・推理などの機能」であったが、これらの機能・能力は2020年代の現在においてAI(人工知能)による代替が可能である。もちろん、現状においてはとても完全な(、、、)代替とは言い難い点にも留意が必要である。「物事を知り」に相当する検知・識別機能の精度は総じて人間よりも劣るし(逆に一部の分野では人間をはるかに凌駕することもあるが)、「抽象・概念化」はごく限られた条件下でのみ可能、「推理」に相当する推論モデルは今のところ「経験に基づく想像力」に欠ける点が課題と言われている。ただし、これらの課題は近い将来解決すると予想されており、その結果2050年前後にAIの知性が人間を超える「シンギュラリティ(技術的特異点)」が訪れるとも言われている。実際にシンギュラリティが来るかはその時にならないとわからないが、上述した課題の解決を見越してAIの開発に莫大な投資がなされているのも事実で、これは、その投資額を「人間の情報処理活動を代替できるAI」が完成した際に見込まれる利益の額が上回っていることを意味している(厳密に言うと、ここでの「見込額」は完成後に得られる利益を現時点で前借りした際に得られる受け取り額を指す。前借りなので、将来得られるはずの額よりも当然割り引かれている)。この「見込額」のことを割引現在価値というが、これは将来完成するであろうAIの現在における価格のようなものだと考えられる。そういう意味では、人間の「精神」と同等の機能・能力を持つ機械(AI)に(莫大ではあるが有限の)値段がすでについているわけで、ならば「精神」の評価額をプラス無限大とした査定は「甚だ不当」と言わざるをえない。つまり、「死を恐れる人」は自身の「精神」にそこまでの価値がないにもかかわらず異常なほどの過大評価をしたことになる。


 この結論に対してはいくつかの反論が考えられよう。一つは、仮に人間の機能・能力を再現できたとしても、それは人間と同じ経験や思弁(論理思考)を重ねて出来たものではない。人間の経験や思弁は各人に固有の唯一無二であり、人間の価値の源泉はそこにこそある。ならば、投資額をもとにした上の査定は機能・能力のみを対象とした時点で誤っている、といった感じであろうか。もう一つは、現状におけるAIの技術的課題が完全に解決することはなく、したがってシンギュラリティが到来することもない。であれば「人間の情報処理活動を代替できるAI」が完成することも未来永劫ないので、それを前提とした上の査定は間違っているといった意見だろう。他にも反論のパターンはありうると思うが、筆者はこの2つのパターンが最も代表的なものではないかと考えている。


 まず1つ目の反論について、個人の経験や思弁が代替不可能という点については筆者も異論がない。それに対して特別な価値を見いだし、対価を支払ってでも得たいと考える人がいる可能性も決して否定しない。しかし、ここで私が問題としているのはその「対価」の妥当性である。例えば、もし私が下手くそな絵を描いたなら、それがどんな絵であろうと、まぎれもなく私にしか描けない代替不可能物である。しかし、代替不能だからといってその絵に高い値が付くわけではない。普通に考えるなら、タダ同然の安い値段ならどこかの物好きが買う可能性が無いとは言い切れないといったところだ。しかし、ピカソが描いた絵なら話は全く違ってくる。仮に、素人が見れば私の下手くそな絵と見分けがつかなかったとしても、当然ながら彼の絵には超高額な値段が付く。代替不能性については、私の絵もピカソの絵も同じであるにもかかわらずだ。では、一体何が両者の違いを生んだのか。それは「需要」である。ピカソの絵は誰もが欲しがるが、私の絵は誰も欲しがらない。つまり、前者には需要があるが、後者にはないということだ。しかし、だ、だとしてもピカソの絵ですら超高額とはいえ有限の値段なのだ。それがプラス無限大の値段ともなればピカソの絵など及びもつかないほど超巨大な需要があるに違いない。具体的に言うなら、ピカソの絵の無限大倍の需要である。だから価格も無限大になるのだ。しかし、「需要」というのは「購買意思」の裏返しである。誰かが欲するだけでなく、実際に買うから市場で値段が付く。では、プラス無限大の金額を払ってまで、一体誰が特定個人の「経験や思弁」を購入するのだろうか? ……少なくとも私は買わない。あなたはどうか? おそらく、それが他人のものなら買わないのではないか。ここでの「あなた」を「任意の第三者」にも置き換えても同じ状況が成立するので、そうなると誰も買わないというのが一般的な結論となる。もし唯一の例外、つまり買う可能性がある者がいるとしたら、それは「経験や思弁」の持ち主たる当人以外にはないだろう。


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