歴史の不在証明(45)
「死が怖い」という人に理由を尋ねてみると、ほとんどの答えは前述した(1)死を迎える直前の過程に対する恐怖、(2)人生が途絶することへの恐怖、(3)死や死後の世界が未知である恐怖のいずれかに当てはまる。ただ、実際の証言に耳を傾けてみると、「自分が無になる」というフレーズが(2)や(3)に関連してよく使われることに気付く。例えば、「どうせ自分が無になるなら生きていても仕方ない」「自分が無になるかもしれないから死ぬのが怖い」といった使われ方だ。この「自分が無になる」という表現は死の恐怖を語る場面以外であまり使われることのない特徴的な定型句といえるが、字義通りに捉えてしまうと「自己の消滅」となるため、すでに述べた「自己」の定義不全によって何を意味しているのかが不明となる。また「自分」を己の肉体と解釈すると、死後も(腐敗はするが)存在しているので「無になる」は明らかに事実と反する。しかし、「自分」を肉体ではなく精神だと考えれば、「自己の消滅」を極度に忌避する人々が本当に恐れるのは「内心が失われること」だとする先の仮説と整合的に思える。したがって、以降は「自己」=「内心」=「精神」であることを前提として議論することにしよう。
ただしそのための準備として、新たに加わった「内心」と「精神」という語についても、「自己」と同様に定義を再確認しておく。まず「内心」の定義だが、前に使った辞書によると「1 表に出さない気持ち。心のうち。心中。」「2 三角形の内接円の中心。」となっている。以降の議論で用いるのは、もちろん1の意味における「内心」のみである。次に「精神」の定義だが、同じ辞書には「1 人間のこころ。また、その知的な働き」「2 物質に対し、人間を含む生命一般の原理とみなされた霊魂。たましい。」「3 物事をなしとげようとする心の働き。気力。」「4 物事の基本的な意義・理念。」「5 ある歴史的過程や共同体などを特徴づける意識形態。」と記載されている。このうち、「内心」=「精神」と規定しても矛盾が生じないのは1と2の定義だけと考えられる。ただし、2は神秘主義的な立場からの定義になっていることに注意されたい。1の定義は、解釈が知的機能のみに限定されることもありうるが、ほぼ「内心」の定義と同義と言ってよい。3は、例えば「気力の喪失」といった用例が「内心の喪失」と同じ意味を持つとは考えられないため採用しない。4と5については、明らかに本論とは別の分野における用語の定義である。よって、以降の議論で用いる「精神」は1と2を意味しているものとする。
さて、ここまで「自己」→「内心」→「精神」と対象の意味を拡張してきたのは、ひとえに日常感覚で理解しやすい表現に改めるためである。すなわち、「自己の消滅が怖い」と言われても今ひとつピンと来ない(直感的にわかりにくい)が、「内心が無くなるのが怖い」という表現なら、さらには「精神が消失するのが怖い」なら、その意味するところに我々の想像力が働きやすいのではないかと思ってのことだ。しかし、である。私に関して言えば、例えば「精神の消失が怖い」という表現の方がより意味を実感しやすいことに異論はない。だが、意味がクリアになったのと同時に「それの一体何が怖いのだろうか?」という疑問がどうしても生じてしまう。とはいえ、私もかつては「自分が無くなる」ことについて一種「虚しさ」の漂う恐怖を感じていた。しかしその根拠について、現在の科学技術を前提とした要素還元主義(問題を構成する要素に分解し個別に独立した考察を行う)と功利主義による考察を重ねていった結果、今は、かつて感じていた恐怖がどんな「感じ」だったのか正直よく思い出せなくなっている。それが誰にでも起こることかはわからないが、ひとまず、今後の議論の基盤を共有するため以下で私が行った考察を再現してみようと思う。
功利主義の立場から見れば、「精神が消失する恐怖」を理由に提示された選択の一切を拒絶するという行動は、精神消失の「予想損失」をマイナス無限大に評価していることを意味する。これは逆に言うと、拒絶する当人にとっては「精神」自体の価値がプラス無限大ということでもある。ならばここで考えるべきは、「精神」の価値=プラス無限大という査定が果たして妥当かどうかであろう。ところで、ここでの「精神」が意味するのは「1 人間のこころ。また、その知的な働き」「2 物質に対し、人間を含む生命一般の原理とみなされた霊魂。たましい。」であるが、2については「霊魂」「たましい」という語の定義が不完全なため、以降は1の定義のみを採用することとする。なお、ここで言う「定義が不完全」は「意味が一意的でない」と同義である。「一意的」とは度々引用している辞書によると「意味や値などが一つに確定しているさま。」を指す。すなわち、誰がいつどこで使用しても同じ事物を意味する語や表現が「一意的」であり「定義が完全」ということだ。これまで明示してこなかったが、本論で度々用いてきた「定義が完全」あるいは「定義が不完全」という表現も全く同じ意味であった。したがって、ある語や表現について「定義が不完全」と述べたからといって、決して「定義の内容や質が劣っている」と言っているわけではない。「霊魂」や「たましい」について言えば、話者が神秘主義を肯定するか否かで意味する内容が変わるだけでなく、肯定論者の中でも自身の信じる教義や学説によって解釈が分かれる語であるため、「意味が一意的でない」という意味で「定義が不完全」とした。それに対し、より「定義が完全」な1を採用したのは、これから「精神」の価値を査定するにあたり「消失」時における金銭的補償の算定が必要になるかもしれないからである。もし「定義が不完全」であるなら、金銭的補償の算定は、複数存在する意味ごとに補償額を算定した上で各意味の蓋然性(当該の状況において特定の意味が妥当である確率)を反映させた合算を行わねばならないため非常に複雑となる。それによって議論が煩雑になるのを避けるため、ひいては議論を簡潔にして結論を迅速に導くために「定義が完全」な方の意味を優先したという便宜的な事情がある。同様に考えるなら、1の定義においても「人間のこころ」は比較的「定義の不完全性」が高いといえるため、以降は「(人間のこころの)知的な働き」を「精神」の意味として採用する。