歴史の不在証明(41)
ならば次に問題となるのは、「補償」の効力が及ぶ範囲である。というのは、もし「未知なる事態」によって被った想定外の損害が「補償」によっても埋め合わせることができない、すなわち「補償」が不十分であるなら、人々は再び危険回避的な心理状態(リスクを強く恐れる心境)となり、予想される損害(選択肢を実行するコストも含む)が最も小さい選択肢だけに集中することになるからだ。それに対し社会的に「有効」なのは、あくまで個々人が特定の選択肢に集中することなく、多種多様な選択肢をそれぞれ選ぶという「多様性」であった。したがって、「補償」が十分でなければ「多様性」も実現されず、結果、社会全体も「有効」な状態でなくなる。
ここでやっかいなのは、人々が危険回避的となる直接の理由が、現に被った損害ではなく「損害を被るかもしれない」という「予想」だということだ。いまだ確定しない「予想」としての損害は、発生確率(損害の起こりやすさ)と損失量(失われる金銭や物の数)との兼ね合いで評価される。具体的に考えれば、必ず起きる(つまり発生確率が100%=1.00)の損害だったとしても損失量が10円であれば上で述べた危険回避的な心理に陥ることはほぼないだろう。しかし、もし損失が1万円ならかなり危険回避的になるはずだ。ところが、損害がめったに起こらない(例えば発生確率が1%=0.01、つまり100回に1回しか起きない)ならば、損失が1万円でもあっても危険回避的になる人はぐっと減る。このような危険回避度の変化は、発生確率と損失量の掛け算によってある程度予想できる。つまり、発生確率が高くても損失量が小さければ危険回避度は高くならず、逆に損失量が大きくても発生確率が低ければやはり危険回避度は高くならないというわけだ。ここで、発生確率と損失量を掛け算したものを「予想損失」と言おう(※)。そうすると、個人が実際に危険回避的になるかどうかは「予想損失」の大きさ次第ということになる。
(※)
同じものを経済学やゲーム理論では「期待損失」と言うが、この場合の「期待」は「予測された」程度の意味しか持たない。しかし通常、日本語で「期待」と言うと「希望に満ちて待つ」といった意味あいが加わるので、本論では「予想損失」と呼ぶことにした。
「予想損失」の量は発生確率と損失量によって決まるが、このうち、発生確率は明確に最小限と最大限の値が決まっている。具体的には、最小限が0%=0.00(この時は絶対に起きない)で最大限が100%=1.00(この時は必ず起きる)である。そして、実際の発生確率は0.00と1.00の間の小数になることが多い。ということはつまり、「予想損失」は(懸念している事態が起きた時の)損失量よりも小さくなることが多いということだ。このことは、例えば損失量が100万円だったすると、0.51(51%)や0.83(83%)といった、0.00と1.00の間の小数を実際に100万円に掛け合わせて「予想損失」を計算してみればよくわかる。もちろん小数が上限の1.00に近づけば「予想損失」も大きくなっていくが、ここでの「小数」はどんなに大きくなったとしても確率の定義からいって1.00を超えることは絶対にないため、掛け算の結果である「予想損失」が100万円を超えることも絶対にない。そういう意味では、発生確率がどんなに高かったとしても、想定される損失量の満額を前もって準備しておけばそこまで恐れる必要はないとも言えそうだ。そして、普段から少額の掛け金を支払うことで「損失量の満額」を準備しておくのが保険の制度であり、「金銭的補償」の一種である。
一方で、損失量の方には明確な最小限と最大限がない。懸念している事態が起きた時、もしも損害ではなく利益が生じてしまうような場合は損失量がマイナスになることもある(1万円の利益は「どのくらい損をしたか」という損失量の基準からみれば「-1万円の損害」である)。そういう意味ではプラスにもマイナスにもなりうるし、金額換算した場合の額面もいくらにだってなりうる。確率のように定義上「1.00を超えない」といった制約があるわけではないので、理屈の上では損失量の最小限がマイナス無限大、あるいは最大限がプラス無限大になることもある。そして、本当に損失量の最大限がプラス無限大になるようなことがあれば「予想損失」もプラス無限大となるので、もはや誰もが絶対的な危険回避的心理に陥り「多様性」の実現など未来永劫不可能となる。これは、プラス無限大の損害をもたらす事態がほとんど起こりえない、例えば小数点以下に0が数十個、数百個続いた後に1がくるような小さい発生確率だったとしても同じである。なぜなら、無限大にどんな小さな数字を掛けたとしても、それが厳密に0でない限り結果は無限大だからだ。したがって、本論で「金銭的補償」に最初に触れた時「金銭的補償ができない例外的なケースはないか?」という問いを立てたが、ここでその例外が見つかった事になる。ちなみに金銭的補償が不可能な例外が実在すると、これまで当然のものとしてきた、「未知なる事態」には「多様性」が「有効」という前提が根底から崩れ去ることになる。
しかし、ここまでで証明されたのはあくまで「理屈の上では」という話であり、理屈の上では起こりえても現実に起こりえないのならば上の前提が崩れることはかろうじて免れる。そこで、プラス無限大の損害という事態が現実に起こりうるのか(起こる確率が限りなく0%に近い場合も含め)ということを考えてみたい。もしそれが現実に被る損害のことであれば、この世に存在する金銭や物が無限大でないことから損害が無限大になることもないと即座に否定できる。しかし、「予想」としての損害がプラス無限大というのは、「例え何がどうなろうと絶対に弁済することが不可能」という人間の心象である。そのような心象が現実で具現化する際は「プラス無限大の損害をもたらす事態にほんのわずかでもつながる可能性がある事柄の一切を、例え世界中の富を全て集めた報酬や現世における最高級の待遇を約束されたとしても断固として拒絶する」という行動になって現れる。
しかし、人が「例え何がどうなろうとも弁済することが不可能」と考えるような事態とは一体何であろうか。もしここで言う「人」が社会や国家、企業といった人間の「集団」を指すのならば、実はそんなものはないように思われる。実際、経済恐慌や戦争、自国民の虐殺は言うに及ばず、国家の滅亡や企業の倒産といった(集団としての)自己が消滅する事態ですら、金銭や利権、そうでなければ(集団の成員たる)人の命と引き換えに受け入れてきた例が歴史には散見される。上で社会全体をマクロ、個人をミクロとして両者にとっての「有効」の違いを論じたが、その視点でいうと、マクロではやはり弁済が不可能な事態などないことになる。よってマクロにおいては「未知なる事態」に対して「多様性」が「有効」という前提は揺らがないし、ここまで論じてきたこととも矛盾しない。しかし、ミクロでは「例え何がどうなろうと絶対に弁済することが不可能」という事態は厳然と存在するように思われる。個人にとっては、自分自身の死がその筆頭だろう。