歴史の不在証明(38)
しかし、それでもなお、腑に落ちない思いを抱く読者もいるだろう。おそらくそのような人は、多くが「どんな行動をとっても霊(に思える現象)には有効(最適)」という部分に違和感を覚えているのではないだろうか。例えば、自室に霊(とおぼしき)気配がするという状況を再び考えてみると、もし本当に邪悪な霊がいた場合は「霊などいない」と無視して入室したりすると取り憑かれて大変危険な目に遭うはずで、それを他の選択肢(祈禱をする等)と同様に「最適」と言われても納得いかないというわけである。あるいは、部屋に霊など本当はいなかった場合、大仰な宗教的祈禱までして入室するというのは明らかに無駄な行為といえ、それと「無視して入室する」行動が同等に「有効」というのはおかしいということであろう。これには、一定程度の理があるようにも思える。
もっとも、このような異議申し立てを論理学的な反論で一蹴することも可能である。なぜなら、それはジャンケン(※初回1回限り)でいえば「相手がグーを出す時にチョキを出すのは悪手だ」と主張しているのと構造的に一緒だからである。この主張を仮に認めてしまうと「<不完全情報ゲーム>の最善手はランダムな手を出すこと」と証明したゲーム理論すら否定されてしまうが、そのような誤った結論が導かれる原因は「相手がグーを出す時に」という前提を置いたことにある。そもそも<不完全情報ゲーム>とは「未知なる事態に対して最適な対応を模索する」という状況を抽象化したものであり、その一種であるジャンケンにおいては「相手が何を出すかわからない」が「未知なる事態」に相当する。したがって、ジャンケンという状況を考えた時点で(<不完全情報ゲーム>の定義から)「相手が何を出すかわからない」という前提があらかじめ置かれていることになる。にもかかわらず「相手がグーを出す」という前提を加えると、先んじて存在する前提「相手が何を出すかわからない」と明らかに矛盾する。現実において矛盾する事象は起こりえないので、「相手がグーを出す時に」という前提を置いて何かを主張することは(論理的に)許されない。前述したように「自室に霊の気配という状況」も<不完全情報ゲーム>であるので、言外に「部屋に霊がいるがいないかはわからない」という前提があらかじめ置かれている。よって、「本当に邪悪な霊がそこにいた場合」または「部屋に霊など本当にいなかった場合」という前提で何かを主張することはやはり許されない。
反論としては以上で十分であるが、それでもまだ、「霊がいるかいないかが我々にはわからないとしても、実際にはそこに霊がいる(またはいない)という事実が確定しているはず。ならばやはり、事実に即した行動(いるなら祈禱、いないなら無視のような)の方が有効(最適)だとは言えるはず」と主張したくなる人もいるだろう。論理学的には、「あなたが“実際には……”以降で言っていることは決して知ることのできないので語ること自体無意味」となるのだが、我々の日常感覚的には「実際には……」以降のように考える人も多いようにも思うので、そのような非論理的な心理が現実の選択行動に影響を与えることも十分に考えられる。よって、以下ではあえて「実際には……」以降の前提を受け入れた上で、行動の最適選択について再考してみよう。
それでは「実際には、生前浄土真宗の仏教徒であった幽霊が部屋にいた」と考えてみよう。この場合の最適行動は「浄土真宗の様式に則った除霊の祈禱を行う」ということになる。それ以外の行動は、「霊などいないと無視する」はもちろんのこと、他の仏教宗派やキリスト教など他宗教の儀式を行うのも全て最適ではない。なお、ここで我々(プレイヤー)は、幽霊が浄土真宗の信徒であったことを知らないし知る方法もない。ただし、そのことは我々が行動を選択した後に(行動により生じた結果によって)明かされるとしよう。この想定は、1つだけ当たりが入っているクジを引く状況に似通っている。もっとも、同じ仏教であれば真言宗や天台宗の儀式でも少しは効くかもしれないので、1等の当たりは1つ(浄土真宗の儀式)だけかもしれないが2等や3等の当たり(真言宗や天台宗等の儀式)も入っているクジの状況かもしれない。いずれにせよ、この状況で我々に迫られるのは「クジを引くか引かないか」という選択である。事前に当たりがどれかを知ることはできないので、1等の当たりクジを能動的に我々が選ぶことはできない。よって、我々に実行可能な行動は「クジを引く」「引かない」を二者択一で選ぶことだけだ。しかし、もし「引かない」を選べば当たりを引くことは絶対にないので、このゲームの最悪手は前述したように間違いなく「引かない」である。ならば、この状況下では、我々は必ず「クジを引く」を選ぶことになる。
ところが、ここで「当たり」を引くことで得られる利益とその心理的効果まで考え合わせてみると事態はそう簡単でなくなる。例えば、「当たり」を引いた賞金が1万円の場合と10円の場合を考えてみよう。庶民感覚からすると賞金が1万円なら(例え「外れ」を引く可能性があったとしても)迷わず「クジを引く」を選ぶだろう。しかし賞金が10円の場合はどうだろうか。クジを引く労力やかかる時間を考えると「10円では割が合わない」と考えて「クジを引かない」を選ぶ人も出てくるのではないか。このことは、ジャンケンのように単純な<不完全情報ゲーム>では最悪手とされ、決して選ばれることのなかった「クジを引かない」が、現実に選ばれうる選択肢に変わったことを意味する。では「部屋に浄土真宗の幽霊」の状況で得られる「賞金」とは何だろうか? 実は、この観点で考えると、理不尽なことにこのクジの1等(浄土真宗の儀式)の「賞金」は何もない。その代わり、1等以外を引くと漏れなく様々な「罰金」が課される。すなわち、2等や3等(真言宗や天台宗等の儀式)を引くと完全に除霊しきれなかったり、「外れ」(「無視する」やキリスト教など他宗教の儀式)を引くと霊障(たたりや呪い等)によって心身に害を被ることになる。つまりこれは、「賞金」(「当たり」で得られる利益)がマイナスのクジなのである。このクジでは正しい選択をしなければ損失を被り、また選択自体をしなくても大きな損失を被る。これまで通り無事でいたければ否応なくクジに参加し、どれが正しいかもわからないのに正しい選択をしなくてはならない。このようなクジは、通常の宝くじというよりもロシアンルーレットに近い。そして、ロシアンルーレットに近いこのクジにおいては、最適選択の条件や性質はさらに変質していくことになる。