歴史の不在証明(36)
誰も何もわからない、そのような状況に陥ってしまった原因は明白である。それは、「霊」もしくは「幽霊」の定義が全くもって不十分だからだ。私が感じた気配の正体が「霊」だというのは良いとして、それが一体何を意味しているのかという「定義」が不明瞭なため(なにせ、上の議論では「霊」の特性や影響を語る以前に、実在するかしないかですら未確定というのだから明瞭さなどカケラもない)、現象(気配)が起きるメカニズムを説明することが出来ないのだ。つまり、「何かわからないもの」を原因に据えてみても、それを使って何かを説明することなどできないということだ。なぜなら、「何かわからないもの」が引き起こすこともまた「何かわからない」からである。考えてみれば至極当然のことだ。
さらに、「何かわからないもの」(ここでは霊)が引き起こす何かがわからなければ、それへの対処もまた不明ということになる。以上の理由によって、肯定派にせよ否定派にせよ、最適行動を決定することは原理的に不可能である。そのようなことは定義の不備にさえ思い当たれば自明なのだが、こと霊については肯定派も否定派も自派閥の方が相手より優れているという自負から「自分たちなら最適行動を決定できる」などと思い込みがちなので、それが不可能であることを丁寧に示すため、上ではあえて双方の立場に立って幾分回りくどい議論を展開した。
ところで、自然科学ではこのような「何かわからないもの」、つまり定義不十分な事象については無視することになっている。その理由は、上述したように定義不十分な事象は生起メカニズムの解明が原理的に不可能なため、事象の生起メカニズムを解明すること自体が存在意義である自然科学の対象とはなりえないからである。別に「目の前の事実から逃げている」ということではなく、「自然科学とは何か」という自己規定からそのようにせざるをえないのだ。実際、科学のプロ(学者や技術者)は霊や幽霊について否定も肯定もせず、「関知しない」と冷淡な態度をとる人がほとんどである(※)。しかし、本論における我々の自己規定は自然科学と同じではない。我々にとっての自己規定とは、(繰り返しになるが)個人や社会の重大な課題を解決すること、換言すれば個人や社会の改善、進歩である。その立場に立つなら、定義不十分な事象に遭遇した場合に(自然科学のように)対応を保留し行動を起こさないこと、つまり「何も考えず何もしないこと」が我々にとっても最善なのかが問われねばならない。そして、以下に述べる理由によって、「何も考えず何もしない」という選択は最善手でないということが言える。
(※)
希に、科学的事実や論理矛盾をもとに「霊は存在しない」と断言する科学のプロはいる。しかしその場合、「霊」に対して独自の定義を与えていることが多い。例えば「原始人の幽霊がいないのはおかしい」といった批判をする人は、あらかじめ「霊は永遠不滅である」「幽霊は生前の姿で現れる」などの定義を勝手に与えている。しかし、百家争鳴ともいえる肯定派の意見を聞く限り、それらに対する共通見解があるとはとても思えない。ならば、真偽不明な定義を勝手に採用して議論をすべきではなかろう。仮にも科学主義を標榜する者であるならば。
私が「気配」を感じた状況をここで再整理してみよう。当時私が直面した課題は「自室に入ることができない」というものであり、これをその場で解決することが我々のさらなる改善につながると考えた。そこで課題の原因究明を試みたところ、「霊」の仕業らしいという結論が出た。この結論から「霊」への対応策がいくつか考えられるが(友好的アプローチや敵対的アプローチ等)、そもそも結論が誤っており「霊はいない」という可能性すらありえた。このような課題解決の試みを一種のゲームを見なすと、プレイヤー(私)にはとりうる手(選択肢)がいくつかあるものの、どの手が有効か全くわからない状況といえる。ここで盤面をひっくり返して考えると、私から見て対戦相手である「霊」が次に何の手を出すかの情報が欠けているともいえる。情報が欠けているのは、プレイヤー(私)側における対戦相手の定義が不十分なせいである。
以前、仮想上の経営会議を舞台に思考実験を行った時のことを覚えているだろうか。そこで私は、対戦相手が次に何の手を出すかの情報が一切ない状況をゲーム理論で<不完全情報ゲーム>と呼ぶことについて述べ、その具体例としてジャンケン(※初回1回限り)を挙げた上で、ジャンケンでの最善手は事前に出す手を決めることなくランダムに出すことだと述べた。これは「最善手」とは言うものの、相手が何を出すかわからないので駆け引きのしようがなく、結果、適当に出すより他に優れた手が存在しないということである。これを先ほど再整理した「霊」との対戦ゲームに当てはめると、{友好的アプローチの宗教儀式を行う, 敵対的アプローチの宗教儀式を行う, 霊などいないと考え無視する,……}といった手の中から何を選択すべきか?についての答えは「何でも良い」となる。ここで注意してほしいのは、プレイヤーが肯定派でも否定派でも答えは変わらないということだ。つまり、肯定派が「霊などいないと考え無視する」を選んでも、そこに特段の意図がなければ「最善手」であるし、否定派が「友好的アプローチの宗教儀式を行う」を選んでも意図的でないなら「最善手」である。
ところで、前に<不完全情報ゲーム>について述べた時に触れなかったことがある。それは、このタイプのゲームにおいて「最善手」ならぬ「最悪手」が存在するということだ。例えばジャンケンの最善手は適当に出すことだと述べたが、もしそこで何の手も出さなかったらどうなるだろうか。当然ながら、何も出さないのはジャンケンにおいてルール違反なので不戦敗となる。つまり、「何も出さない」というのは状況によらず必ず負ける戦略といえる。したがって、ここでの「最悪手」は「何の手も出さないこと」である。このことは「霊」との対戦ゲームにおいても当てはまる。つまり「気配を前にしても何ら行動を起こさない」がこのゲームにおける「最悪手」であり、それは、現実において図らずも幼少時の私が選択してしまった手である。