歴史の不在証明(35)
ここまでを小括しよう。私が幼少時に体験した「虫の知らせ」は、自分の部屋に見えない「誰か」の気配がして入室できなかったというものだった。同時刻に知人が亡くなっていたという事実から、当時は「故人が今生の別れに会いに来たのだ」という「物語」を受け入れ地域内で共有した(霊現象の肯定論)。それに対し、想像力旺盛な子どもが何も無いところに「気配」を感じるのは特段珍しくもない出来事であり、ならば知人の死という希な現象が偶然重なる確率も決して低くないという否定論も紹介した。その上で、功利主義の観点から、肯定論も否定論も自己の生活や社会を改善するのにどちらも「有効」であると評した。しかし同時に、どちらも気配を感じた当日(知人の死という事実が発覚する以前)には何ら有効な行動がとれないことから最適ではない(改善の余地がある)とも指摘した。当日における最適行動は、否定論者の場合、気配など無視して即入室することだと答えるだろう。しかし(私を含めた)常人は、いざ怪異に思える現象を目前にすると往々にして「ひょっとしたら霊の仕業かもしれない……」という疑念を払拭できなくなる。そのような疑念を感じてしまえば、今度は肯定論者としての最適行動を考えねばならない。肯定論者が考える最適行動の中でも最も代表的なものは、除霊や悪魔払いのような宗教的儀式を行い怪異の原因たる霊を無害化することだ。無害化の手段には友好的アプローチ(成仏させる、天国に行かせる等)と敵対的アプローチ(追い払う、封印する等)があるが、友好的アプローチは儀式の術者が信仰する宗教・宗派と無害化する霊が生前信仰していた宗教・宗派が一致している必要がある。敵対的アプローチは対象とする霊と宗教・宗派が一致する必要はないが、術者の「実力」が霊のそれを上回っている必要がある。さらに、肯定論者として考え行動していても、今度は逆に「ひょっとしたら霊などいないかもしれない……」という疑念にとらわれ否定論者に回帰することもある。
ここで、当日における最適行動を再度(より厳密に)考察してみよう。我々が怪異に対峙した時、上の小括をふまえると次のような最適行動のバリエーションが考えられる。
1)即座に入室する(否定論者としての行動)
2)宗教的儀式を実行する(肯定論者としての行動) ※実行を他者(霊能力者等)に委託しても可
2-1)友好的アプローチの儀式を実行する
2-2)敵対的アプローチの儀式を実行する
しかしこれらはあくまで「我々が予想する最適行動」であって、各々が想定する前提が間違っていれば当然成り立たない。その場合は、実際には最適どころか、実行した行動により事態をさらに悪化させることにもなりかねない。そうなるのは、上の1)で実際には有害な霊が存在した時、2-1)で術者と対象霊で宗教・宗派が不一致だった時、2-2)で術者の「実力」が対象霊より劣っていた場合である。これは換言すると、
・(少なくとも怪異の現場に)霊が存在するかどうか
・(霊が存在していた場合)対象霊が生前信仰していた宗教・宗派
・(霊が存在していた場合)対象霊の「実力」
に関する情報が前もって与えられていないと、真の最適行動を決定することはできないということである。そして、これらの情報を事前に持っていると断言できるのは、霊の存在に絶対的な自信を持った霊能力者か詐欺師だけである(※1)。詐欺師は論外として、「絶対的な自信を持った霊能力者」であっても自分が断言する情報の正しさを客観的(科学的)に証明することは不可能だろう(※2)。いずれにせよ、それは結局、彼に依頼する立場である我々(常人)にとっては情報が与えられていないのと同じことである。ここで重要なのは、上の2)、2-1)、2-2)のような霊の肯定論者であったとしても、最適行動を決定するための確定情報を持っていないに等しい点である。つまり肯定派だろうが否定派だろうが、目前の怪異が何であるかわからず、それへの対処方法も不明ということだ。要するに、霊が絡んだことは誰も何もわからないのである。
(※1)
ちなみに、霊能力者とは対極的な存在である確信的否定論者であっても「霊は存在しない」と断言はできない。なぜなら、物事が存在しないことの証明は「悪魔の証明」と呼ばれ科学的な証明は不可能とされているからだ。
(※2)
ことは科学的証明なので、彼がそれを成し遂げたならすでに科学史を塗り替える大発見として発表されているはずだ。「証明はされているが隠匿されている」といった陰謀論もあるが、仮にそうだとしても公表されない限りは「証明されていない」と公的に同義である。そもそも、科学は共通の知識があれば誰もが同じ結論に辿り着く(ゆえに「愚者の学問」とも呼ばれる)ので、特定の証明者の口をふさいでも他の誰かがいずれ証明するため隠匿など不可能である。