歴史の不在証明(34)
まず、除霊や悪魔払いで仏典や聖書の一節が唱えられるのはなぜかについて考えてみよう。それらを信じる人たちによる最も素朴な説明は「教典(仏典や聖書)に記された言葉には神仏の聖なる力が宿っており、その力が霊を無害化する」というものだ。「無害化」の手段については、友好的アプローチ(成仏させる、天国に行かせる、改心させる、再び神仏に帰依させる等)と敵対的アプローチ(追い払う、封印する、消滅させる等)とがあるようだ。これを受け入れた場合、「キリスト教の幽霊にお経を唱える」のケースで生じる疑問は、ならば仏教による「聖なる力」は生前キリスト教徒であった幽霊に対しても有効(=無害化することが可能)なのかというものだ。
友好的アプローチによる無害化の場合は結果的に霊をも救うことになるが、特定の神仏が救うのは自らを崇拝する信者だけなので(そうでないとするなら人が別の宗教に改宗する動機が説明できない)、「キリスト教の幽霊にお経」は「有効でない」という意見がある程度説得力を持つ。したがって、除霊や悪魔払いが有効であるためには「儀式を行う術者が信仰する宗教と儀式の対象となる霊が生前信仰していた宗教が互いに一致すること」が必須条件となる。しかし対象霊が信仰していた宗教が常に自明とは限らない。日本に出現した霊ならば仏教か神道の信者であった可能性が高いとは言えるものの、それでも霊が生前外国人であった場合はその限りではないし、日本人であってもキリスト教など別の宗教の信者が少なからずいる。さらに、現在においては無宗教の人も到底無視できないほどに多い。それらを考慮すると、出現場所や霊の人種(見た目の)に合わせた宗教の儀式を選択することで有効となる確率を向上させることは可能だが、それでも100%ということはないので最後は結局運まかせということになる。さらに、一部肯定派によると「同じ宗教でも宗派が異なれば有効ではない」となるが(例として、キリスト教のプロテスタント信徒の霊にカトリックの儀式が効くか等を考えれば、やはりこれにも一定の説得力がありそうに思える)、仏教やキリスト教といった主要宗教はどれも多様な宗派があるため、霊に合わせ宗教だけでなく宗派まで指定して儀式を選択するとなると、選択肢が多くなりすぎて実現がかなり困難になると思われる。以上を総合すると、ある特定宗教の儀式によってとり行った除霊や悪魔払いが有効かどうかは、結局のところ厳密にはわからないということになる。
それに対して敵対的アプローチによる無害化の場合は、必ずしも術者と対象霊が信仰する宗教が一致する必要はなさそうである。なぜなら、友好的アプローチのように教化して意に沿わせるのであれば、相手とのコミュニケーション手段として共通の宗教が必要だが、敵対的アプローチ、つまり排除や攻撃のように一方的な実力行使をする場合はそもそもコミュニケーション自体が不要だからだ。実際、大抵の教典には異教徒を神仏の威力で打ち払うといったエピソードが含まれる。しかも、生者、死者(霊)を問わず神仏の威力が及ぶという描写もあることから、異教徒を打ち払った威力は霊にも有効であると容易に察せられる。とはいえ、だからといって敵対的アプローチがいついかなる時も有効なのかといえばそんなことはなく、術者が未熟あるいは能力不足であったり、コンディションが万全でなかったりすると効かないこともあるようだ。例えば、流布している手記風怪談の類型として、霊障に悩む主人公が駆け込んだ寺や神社で「憑依した霊の力が強すぎてウチでは払えない」と断られるパターンがまま見られる。そうなると、術者と対象霊の実力差が除霊や悪魔払いの成否を決めることになるが、何をもってして「実力」とやらを測るかがあまり明確でない。上述した「霊の力が強すぎて」云々の怪談では、術者が(少なくとも主観的には)自分と相手の実力を知っていたため除霊を断ったと解釈できるのものの、その後のストーリー展開として「それでも除霊を引き受けなんとか成功する」「除霊を引き受けた術者が命を落とす」の両方があり、となると術者の主観的自己評価が必ずしも当てになるわけではなさそうだ。結局のところ、除霊や悪魔払いが有効かどうかはここでも厳密には「わからない」となる。つまり、友好的アプローチの場合と同じである。
さらに、ここまでは霊の存在を肯定する立場からどのように行動すべきかを考えてきたが、その立場であっても、行動時の条件として「霊が存在しない」場合を考慮する必要がある。なぜなら、前述したように、仮に霊の否定派であっても「怪異に思えるような現象」に遭遇すると「ひょっとしたら……」といった肯定派的な心理に陥るが、それを鏡写しにしたことが肯定派にも起こるからだ。すなわち、普段は霊の存在を肯定していても、説得力のある否定派的説明(自己暗示や自然現象の誤認論等)に出会ったり、「幽霊の正体見たり枯れ尾花」のような個人的体験があると、「怪異に思えるような現象」に対峙した時に「ひょっとしたら霊など存在しないのではないか」という考えがよぎるということだ。そして、ひとたびそう思ってしまったなら、彼はそれを前提とした行動案を考えざるをえない。つまり、想定せねばならない条件が一つ増えるということだ。