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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
146/182

歴史の不在証明(33)

 では、この2つの<物語>化がいずれも有効だとして、その度合いは最大化されている(個人や社会にとって最も良い課題解決策を提示している)といえるだろうか。ここまで一貫して「課題解決」および「改善」を至上命題とする功利主義をとってきたが、その立場から見て気になるのは<未知>に遭遇した時即座に対処行動がとれていないことである。これは、正体不明の「気配」を感じたことによる恐怖心から、本来入室すべき用事があったにもかかわらず自室に入れなかったことを指している。そこに行動の非効率があり、逆に言えば、さらなる改善の余地がある。この非効率は、翌日「超常現象ではない」と結論を下した第2の<物語>化であっても同じである。前日に恐怖を感じた体験と知人の訃報の一般的な発生頻度を確率論的に評価し「超常現象でない」と結論しているが、これは言い換えれば、リアルタイム(前日)に超常現象を否定し、即座に対処行動がとれたわけではないことを意味している。


 ここで、どのような行動をとれば最も望ましかったのかを考えてみる。まず、前日「気配」を感じた時点で「霊などいない」と結論を下し、恐怖心を無視して即座に入室するというのはどうだろう。しかしこれは「霊などいない」ことを100%確信していなければとれる行動ではない。そのような確信が可能なのは、しかるべき知識や経験を持つ科学者や技術者、捜査関係者や軍人といった職業的プラグマティスト、そうでなければ常軌を逸したレベルにまで思い込みの激しい人間などに限られるだろう。それ以外の常人(私も含め)は、例え普段霊を否定していても、いざ「怪異に思えるような現象」に遭遇すると恐怖心にとらわれ身動きがとれなくなる可能性がある。なぜなら、100%の確信がなければどうしても「ひょっとしたら……」という疑念を払拭しきれず、それが容易に恐怖心に転化して心中を浸食していくからだ(人間というものは本当に弱い)。いっそのこと恐怖を感じなくする方法があればよいのだが、少なくとも自分が「怪異」だと認識するような現象は発生しているわけで、その認識が何らかの錯誤だとしても「原因不明な異常事態」に直面していることは間違いがなく、そのような状況下で恐怖を感じるのは危機管理として正常な身体機能である。よって、恐怖を感じること自体はどうしようもない。


 では、霊がいる可能性を排除せず、もしいたとしても危害を加えられることのない(と自分で信じられる)何らかの措置(・・・・・・)を講じた上で入室するというのはどうか。「何らかの措置」というのが何なのかはひとまず置いておくとして、そのような行動パターンに当てはまる人物にあなたは心当たりがないだろうか。多くは映画や小説などの創作中だと思うが、怪異の起きている現場に念仏や呪文を唱えて飛び込む僧侶や霊能者、といったシーンを一度は見たことがあるだろう。となれば、「何らかの措置」とは念仏や呪文といった宗教的儀式、行動パターンに当てはまるのは僧侶や霊能者のように信仰によって力を得た超能力者ということになる。もちろんフィクションでの話なので、映画や小説が描く姿そのままの超能力者というのは実在しない。しかし、作品の作者が参考にした宗教的儀式や宗教的職能者は現実に存在している。ネットでも“除霊 依頼”などで検索すれば、「悪霊や憑依霊を除霊する」サービスを提供する法人や団体がいくつも見つかるだろう。ほとんどの場合は得られる成果と支払わねばならない報酬が見合ってないと思われるのでそのようなサービスを利用するのは個人的におすすめしないが、理屈で考えるならば、もし彼らが用いる宗教的儀式を自分で体得すれば似たようなことができるはずである。それが可能なら理想的な対処法といえないだろうか。なぜなら、もし本当に霊がいるなら「念仏や呪文を唱える」といったお手軽な方法で無力化できるし、いなかった場合は「やってもやらなくても同じ」という意味で特に実害はないからだ。特に、普段は霊を否定していても実際に「怪異に見える現象」に出くわすと怖じ気づいてしまう凡人(おそらく世の圧倒的な多数派)にとっては、霊の存在を100%否定できる人のような強靱な精神力も必要ないので現実的な対応策になりうる。実際、「気配が怖くて自室に入れなかった」という私のケースでは、般若心経の一つでも唱えていれば、仏の加護を感じて気が強くなりすぐに入室できただろうと考えている。というのも、何か物理的な異常現象が起きたわけでもなし、「怪異」としては般若心経程度で対応できた案件なのではと思えて仕方がないからだ。


 もちろん、上で宗教的儀式を「お手軽な方法」と言ったが、いざ実践しようと思えばそう容易な話ではなくなる。経文や呪文の詠唱、拝礼や手印を結ぶといった身体儀式の訓練、儀式の複雑な手順やタイミングにかける労力、祭壇や供物を調達する費用等が必要となる。しかし儀式を実践する宗教や呪術の流派には、ほとんどの場合それらを体系的に学び習得するシステム(教程)がある。したがって、人生の少なからぬ一時期を費やして修行する覚悟があれば儀式の体得は可能だ。その上で、ある特定流派の儀式を体得したとして、それで世のあらゆる「怪異」に対応が可能になるのかという疑問が生じる。いわゆる「キリスト教徒だった幽霊に仏教のお経は効くのか」問題である。霊を否定する立場に立てば「どうせ自己暗示にすぎないのだから自分で効くと思えるなら効くのだろう(お前の中では)」ということになるだろうが、霊を肯定する立場に立ったとしても、実は、以下に述べる理由によって「キリスト教の幽霊にお経を唱える」のが最適な行動という結論になる。


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