歴史の不在証明(32)
体系的に調査したわけではないが、超常現象に関する体験談や手記を見ていると「虫の知らせ」に関するものがとりわけ多い印象を受ける。1990年に行われた調査(※)でも“あなたは、いわゆる「虫の知らせ」「夢のお告げ」「第六感」などで、人の死に関連した不思議な体験はありますか”という質問に対し、医療関係者の約3人に1人(34%)、一般人(成人)の約4人に1人(23%)が「はい」と回答している。
(※)https://www.jstage.jst.go.jp/article/jabedit/3/1/3_KJ00002475555/_pdf/-char/ja
超常現象一般の体験者の割合がそこまで高いとも思えないので、やはり「虫の知らせ」の体験は超常現象の中でも頻度の高い部類に入ると言えよう。もっとも、この調査の回答者は医療関係者が46名、一般人が52名とサンプルサイズが小さいので、この結果から日本国民全体でも同じ比率で体験者がいるとは言いがたい。しかし、ここでは確実に一定数の体験者が実在することの根拠になれば十分である。以上のことから、怪談話によくある「友達の友達が体験した……」というような体験者の実在が疑わしい現象とは異なり、少なくとも「虫の知らせ」を体験したと自認する人が確実に存在することは今後の議論の前提となる。
なお、「虫の知らせ」は私自身も体験している。それは次のようなものだった。小学校低学年の頃、ある夜に限って私は自分の部屋にどうしても入れなかった。なぜなら、明かりの消えた部屋に何者かがいる気配を濃厚に感じたからだ。姿は見えないながらも、その気配は私の部屋と続き間になっている兄の部屋の方を見ていると(理由もなく)感じた。しばらくの間恐怖心から逡巡していたが、ずっとそうしてるわけにいかず、意を決して部屋に飛び込み照明をつけた。すると、なぜか明かりがつく前ほどの怖さは感じなくなり、その後は普段通りに過ごすことができた。兄の担任教諭がその時間に亡くなっていたことを知ったのは翌日のことである。
さて、この話で幼少時代の私が出会った<未知>は「気配」である。それを感じた時点では明確に<物語>化はされなかったが、翌日、兄の担任の訃報がもたらされたことによって「死の間際に教え子に会いに来たのだ」という「物語」が完成したと考えられる。前段に「原因不明の怪奇現象」、後段に「同時刻の知人の死去」という「虫の知らせ」譚の典型的な形式に若干はまりすぎているようにも思うので、<物語>化にあたっては、私の話を聞いた親などが「虫の知らせ」に関する自分の既成概念で補完したことも考えられる。いずれにせよ、この話は教諭の教育熱心さや、若くして亡くなった無念さ(裏返すと命の大切さ)を伝える逸話として、父兄や一部の学校関係者間で流通したと記憶している。<物語>化は何らかの課題解決のためにという視点から考えると、故人周りの小さなコミュニティーではあるが、メンバーが共有するエピソードとして集団の基盤強化に役立ったのではなかろうか。
ちなみに、この話から別の<物語>化をすることも可能である。例えば、“前段に登場するような「気配」を子どもが感じることは決して珍しくない。子どもは想像力が旺盛なため、夜の暗い廊下や押し入れの奥、天井の隅などを突然怖がったりする。そのような経験は誰しも覚えがあるはずである。この話では子どもの主観的な「恐怖」と知人の死がタイミングよく重なってしまったために、あたかも両者に関係性があるような錯覚が生じてしまった。しかし、子どもが何かを怖がることなど日常的にいつも起きていることなので、一方が希な現象(ここでは知人の死)であっても同時発生する確率は決して低くない。つまりこれはありふれた事象なのであって、超常現象とは言いがたい”といった「物語」もありうる。もちろん、この<物語>化であっても何ら問題はない。“一見怪異に思えることが起きたとしても、「怖く感じる」といった程度の実害のない範囲であれば無視してもかまわない”といった教訓が得られるという意味では、社会の課題解決に役立っているともいえよう。
上に挙げた2つの<物語>化について、本論では優劣をつけることをしない。ましてや「どちらが本当か」、つまり、当時本当に教諭の霊が訪問したのかについては全く関知しない。繰り返しになるが、<物語>化は科学のように真実を明らかにするプロセスではなく、個人や社会を改善する手段だからである。そういう意味では、どちらも具体的な課題解決策を提示している、すなわち改善につながっているので双方とも同程度に有効と考える。