歴史の不在証明(26)
以上をふまえると、次のような進化のプロセスがあったと考えられる。まず、有史以前(文字文化登場以前)に進化スピードの早いRNA型進化によって「プロトコル」(口語文法)のバリエーションが無数に誕生した。一方、新たなバリエーションを実装した<神話>=<物語>が聞き手に披露され反響を得るというコミュニケーションの場で、より聴衆に通じやすい「プロトコル」が生き残るという淘汰が進んだ。その結果、いくつかの類型(言語学で言う「〇〇語族」のような)に収斂していった。また、その際のコミュニケーションは話し手が権威や利益を得んとする社会的競争ゲームの側面を有していたので、同時進行的に、ストーリーはゲームの必勝戦略であるいくつかの<元型>に収斂していった。この間に<神話>=<物語>は実験期あるいは試行錯誤期を終え、「プロトコル」やストーリーもある程度実践に足る完成したレベルに達したものと考えられる。したがって有史以降(文字文化登場以後)、「プロトコル」は比較的進化スピードの遅いDNA型進化に変化し、ストーリーも<元型>を基礎にアレンジしたものがほとんどとなった。実際、この仮説は現実の文化史で起きたことともよく合致している。具体的には、有史以降は「〇〇語族」と「××語族」の統合や分派、消滅等はあるものの、それまでに全くなかった新規の語族が登場していないこと、また、(ユング派の心理学者によると)現存するほぼ全ての「物語」は皆いずれかの<元型>に分類できること、といった事実と整合的なのである。
さて、以上をもって<物語>の歴史、すなわち、有史以前の<神話>に始まり、有史以降は<歴史>から<文学><報道><論文><映画><演劇>他に分派して進化していったプロセスを全て素描することができた。やはり全体を俯瞰して感じるのは、接触した分野を全て侵食し<物語>の文脈の下に再構成する貪欲さである。<報道>は「事件情報」、<映画>は「記録映像」のように<物語>以外の活用があり得たにもかかわらず、実際には<物語>性を持つコンテンツによって現在占有されてしまっている。本論中盤において、近代の<物語>の発展に関して「媒体を食らいつくし急成長する貪欲な怪物」と評したが、それは太古の<神話>時代にあっても同じであった。逆に現在でも、SNSやVRといった新媒体で<物語>の侵食は進行中である。今や人類の文化の中で<物語>の眷属でないものはごく少数であり、いずれは「全てが物語になる」だろう。
文化が全て<物語>になるということは、換言するなら、「人間とは、人類とは<物語>である」という命題が成立することを指す。なぜなら、<文化>とは人間の精神的活動の(集団間/世代間)集積を示すものであり、それこそ文化史において人類が人類たる所以(他の生物種との差異)は精神活動を(コミュニケーションによって)集団間で共有し、世代間で伝承できることとされているからであり、そしてそのような営みを<文化>と呼んでいるからだ。つまり<文化>は人間に固有の属性であり、それが<物語>で塗りつぶされてしまうなら、それはもはや<物語>である、というわけである。
そのような世界は、我々の目にはどのように映るだろうか。以前、<物語>とは「意外性のある因果関係」を提示するものであり、それは俗に「面白い話」と呼ばれると述べたことを思い出してほしい。したがって、全てが<物語>になった世界では、我々の目に映るものは全て「面白い話」である。仕事であろうと勉強であろうと、人付き合いから生老病死に至るまで全てに起承転結があり、それによって全てが理解可能であり、それでいて理解には多少の意外性も伴う世界だ。それは一見心地よさそうな世界に思える。実際そうなったら我々の大半は居心地のよさを感じるだろう。ならば、「全てが物語になる」は我々にとって歓迎すべき事態と言えるだろうか。