要約:歴史の不在証明(6)~(11)
この“真の○○”という考え方を歴史に対しても同様に当てはめれば、「文字」(<1次元>)→「叙述文」(<多次元>)という対応が成り立つ。ここで言う「叙述文」は「事物の変遷の軌跡を文章で表してたもの」である。これが物理的実体である「歴史」を<歴史>に概念化する際のプトロコルとなる。ただし「歴史」の中には「文字」(<1次元>)→「年表」(<1次元>)のような対応もあるので、このプロトコルが適用できない例外もあることに留意しよう。
ところで、「歴史」から抽出された「叙述文」もまた「物語」である。歴史に関する書籍や教科書の実際の記述を思い浮かべてみれば、「叙述文」の形式が編年体であれ列伝であれ、そこでなにがしかの起承転結が描かれていることに異論はないだろう。ならば<映画>と<歴史(の一部)>はともに<物語>に含まれる、つまり<物語>は<映画>と<歴史(の一部)>の上位概念である。<映画>や<歴史>は物理的実体の上位概念という意味で2次元構造を有していたが、<物語>はそれらを統合するさらなる上位概念という意味で3次元構造である。このように概念は上位の多次元に統合されることで、より抽象性と本質性を深めていく。ならば、物理的実体を持たない<歴史>が究極的に何であるかは、さらに上位への統合を重ねることで見えてくるはずである。
「年表」が「歴史」の一部でありながら<物語>としては概念化されなかったことに上で留意してほしいと述べたが、代わりに<図表>といった別の概念化は可能なことに注目しよう。このことから、「叙述文」と「年表」の双方から概念化された総合的な意味での<歴史>は、<物語>や<図表>のような複数の上位概念と持つと言ってよい。このように、通常の概念は上位概念を複数持つことがあり、その場合、どの上位概念を考察対象とするかは(矛盾を生じない限り)考察目的に合わせて任意に選択することができる。ここでは手始めの演習として、<映画>の<歴史>(<映画>の上位概念としての<歴史>)を考察する。
歴史において<映画>が登場した黎明期から「歴史映画」と呼ばれるジャンルが存在していたが、これは<歴史>の編纂という目的のために<映画>という新技術が取り入れられたという経緯ではない。むしろ<映画>側が、安定した興行が可能な商材として<歴史>を取り込んだというのが実態である。しかも本当に必要だったのは<歴史>の<物語>性だけだったので、「歴史映画」を正史として考えるならば色々と相矛盾する作品群が乱造された。しかし一方で、映画を見た者の内面における個人的な<歴史観>に対しては、「歴史映画」は多大な影響を与えてきた。そうして形成された私的な歴史観を<擬歴史>と呼ぶなら、<擬歴史>は個々人のアイデンティティーから国家意識(国民性)までを構成する際の基本要素となった。
しかし実際上、国家意識への統合には<擬歴史>における個人差が大いに障害となった。そこで個人差を吸収するため各概念のプロトコルが機能した。例えば、<映画>において①カット=局所的な時空間の変化、②シーン=特定の文脈を表すカットの塊、のようなプロトコルを共有することで、<映画>から抽出する<ストーリー(物語)>の誤差を最小限に抑えることができた。さらに「歴史映画」の<ストーリー>から国家観を形成する際には<プロパガンダ>がプロトコルとして機能し、民族・国民で共通するイメージを高揚感とともに共有することが可能となった。
ただし、ここで留意すべきは、<映画>→<ストーリー(物語)>に変換するプロトコルは未だ技術的に不完全ということだ。なぜなら、<物語>では(文字によって)直接表現が可能な<感情>や<理念>などの概念が、カットやシーンの集積である「映画」では(少なくとも現在まで)表現不可能だからである。しかし、我々は通常、「映画」を見ることによって、概念をも含む<物語>を共有することができると思い込んでいる。しかし実際は、「映画」から受け取る<物語>は個々人で異なる<擬物語>なのである。
なぜこのような不手際、すなわち(現在の技術では)概念まで表現できない「歴史映画」を、国家観のように個人を超えた公共概念(社会の成員で共有される<物語>)の共有手段として採用したのか。別な言い方をするなら、技術的不備があるにも関わらず<物語>としての<歴史>を<映画>に導入することを望んだのは一体誰か。
少なくとも<歴史>側が望んだわけではないことはすでに述べた。加えていうなら、「歴史映画」の登場までに<歴史>は独自の進化をとげ、近代科学や近代国家を牽引するエリート層(知識層・権力者)のツールとして確立されていたため自足していた。<映画>側は客寄せの目玉として<歴史>、というより<物語>を欲したが、もしそこに不備があったと知れたなら積極的に導入する動機はなかったはずである。ならば、この不備を看過してまで導入を望んだのは<物語>以外にはない。