歴史の不在証明(21)
以上小括すると、感情や抽象概念のように外形的な表現が不可能なものを伝達する場合は伝達誤りが大きくなる。なぜなら、話者と聞き手が内面を可視化した事物を媒介にして認識をすり合わせることが出来ないからだ。それに比べると、色や形状のように外形的な表現が可能なものに関しては伝達誤りが小さい。ただし、それでもクオリアの個人差に由来する伝達誤りは避けることができない。もっとも、文字や映像といった副次的な伝達手段で補完することにより誤りは低減させることができ、さらに技術革新によって将来さらなる改善が期待できるだろう。この辺りが、現実的に低減可能な伝達誤りの最低水準となる。
そして飽くなき技術進歩の果て、ついに脳同士を直接連結して情報通信できるようになれば、クオリア自体を直接「コレ」と相手に指し示すことができる日がくるかもしれない。そうなれば、意思伝達時における伝達誤りは完全になくなるだろうか。それについては前にも言ったが考えにくい。おそらく、例えば「赤」に関する他人のクオリアが直接認識できたところで、それは自分にとって、とても「赤」とは結びつかない得体の知れないものとなる可能性の方が高い。なぜならこれも前に述べた通り、クオリアとは遺伝的特性と社会的環境の所産、つまり自分だけの体験を自分だけの体で感じた結果生じるものだからだ。ならば、他人が他人の身体で体験した結果であるクオリアは自分にとって、クオリアとすら感じられないかもしれない。これは生まれや育ちが異なる外国人が話す言語を「言葉」として認識できないのと似ている。ならば、おそらく他人のクオリアを我が物として感じるには<翻訳>に相当する操作が必要となろう。なじみのない相手の「言葉」を、慣れ親しんできた自分の人種や社会、文化から発した「言葉」に置き換えて理解しようとするのが<翻訳>という概念であるが、ここで言う「言葉」を、クオリアに対応する何らかの「知覚」(未来の技術の話であるので、それは脳内の「電気信号」あるいはそれを変換した「デジタルデータ」かもしれない)に置き換えたような操作である。しかしこれは、よくよく考えてみると外形的な事物について意思伝達する場合と同じである。「外形的事物」がここでの「知覚」に置き換わっただけだ。外形的な事物に関する場合でもクオリアの差に由来する伝達誤りが生じることは以前述べた通りであるから、未来技術による「知覚」の場合でもやはり伝達誤りは避けられない。もっとも、クオリアの差は未来の大幅な技術進歩のおかげで今よりずっと小さくはなっているであろうが。
しかし、さらに詰めて考えると、こういう可能性はないだろうか。遺伝的特性と社会的環境の差から生じるクオリアの個人差が思いの他小さかった、差があることはあるが、例えば「赤」に関する他人のクオリアは、かろうじて自分にも「赤」のクオリアと感じられるようなものだった場合は? これならば上の<翻訳>に相当する操作は不要になるから、それを原因とする伝達誤りも生じないはず。その場合は、「赤」に関する万人のクオリアは完全に一致しないものの、ある程度の誤差の範囲に分布する<群>のような形で存在することになる。ならば、その中で最も代表的なクオリアを選んで、以後全員がそれを「赤」のクオリアとして使い続ければいい。
なるほど、それならクオリアの差を回避することができ、ひいては全ての伝達誤りをなくすことができるだろう。しかしこの考えには1つ致命的な点がある。「最も代表的なクオリアを選ぶ」というのが、実は現実的に不可能なのだ。一体何をもって代表とするか……「以後全員使用する」と言っている限り、選ばれるものは全員一致でなければならない。しかし、平均値、中央値、最大値、最小値、どれを基準に選んでも全員が満足するということはありえない。なぜないと言えるか? それは「アローの不可能性定理」という名で知られているからだ。それによると「3つ以上の選択肢(ここではクオリア)がある場合、どれか1つを公正に選ぶ方法は存在しない」となる。これは社会学上の定理であるが、数学的に証明された原理なので例外は存在しない。そもそも、平均値や中央値等の統計値は単なる計算結果でしかないから、完全一致する個体というのも通常は存在しない。さらに、致命的とまではいえないが「全員使用する」という想定も問題含みである。ここで共有しようとしているのはクオリアだが、認知科学でクオリアは「自己同一性」の根源と言われているので、もし他人のクオリアを自分に移植してしまったら、それは本当に<自分>と言えるのかという問題もある。
以上、脳を直結した想定での議論は未来の技術を前提にした思考実験でしかないが、それでも、どこまで科学技術が進んだとしても意思伝達時の伝達誤りを完全になくすことはできなさそうだという知見は得られた。