歴史の不在証明(19)
「プロトコル」という語は、「映画」を解釈する際の万人共通のルールとして以前にも使用した。その際、「映画」における「プロトコル」の最も基本的な機構(物理的に何が行われ結果何が生じるのか)は、以下で説明されるカットとシーンを認識することだと述べた。
“①局所的な空間(通常は肉眼で見渡せる範囲)における被写体の短時間での変化(通常は数秒~数分)を記録したコマの集合体がカットである、②カットを特定の文脈によって集中的に配置した集合体がシーンである”
また、カットとシーンを認識することによって実現が期待される機能、つまり「プロトコル」を採用することの意図は、(今回で3度目の掲示になるが)以下のようなものだった。
“映画の「プロトコル」が果たす本質的な機能とは、現象としての「映画」(フィルムに焼きつけられたカットの順序)に隠された文章テクストを取り出し<物語>として概念化することだったのだ。”
これは言い換えると、映像(カットやシーンの連なり)から「文章(物語)」への変換が期待されるということだ。ただし、これには一定の留保がある。というのは、文章なら喜怒哀楽の感情そのものや、「愛」や「科学」といった抽象概念も表現することが可能であるが、映像表現ではそれらを確実に想起させる技法がいまだ存在しないため、不可視の感情や概念への変換は将来の技術進歩への期待として留保されている。つまり、上で述べた「期待」は、現在実現できている部分と将来の実現可能性に託された部分の二重構造となっている。
以上をふまえて、今度は口承伝達における「プロトコル」についても考えていくことにしよう。
「映画」の場合に沿って考えるなら、口承伝達における「プロトコル」の最も基本的な機構(物理的に何が行われ結果何が生じるのか)は以下の通りとなる。
『話者の「発声」(口頭で発せられる音声の組み合わせ)を入力とし、あらかじめそれに対応づけられた特定の「発声」を出力として応答する。』
この機構によって実現が期待される機能も「映画」と同様に存在するが、やはり現在実現できている部分と、将来の実現可能性に託された部分の二重構造となっている。
現在実現できている部分とは、外形的な事物について意思伝達するようなケースである。前述したような事例、「ママ」=<母親>という発声の対応を乳児が学習するようなプロセスに相当する。特に発声の対象物が話者と聞き手の目前にある場合は、互いに発話と応答の発声を繰り返し、入出力の対応が正しいかどうかの調整を繰り返すことによって、ほぼ100%の精度で正確な情報のやり取りができるようになる。我々が日常生活で意思伝達する場合の大半はこのパターンであり、したがって、文字や映像といった副次的な伝達手段がなかった<神話>時代であっても口承伝達の精度はおおむね高かったものと推測される。
一方、将来の実現可能性に託された部分というのは、内面的な事物について意思伝達するようなケースである。これは、(「映画」の場合と同様に)不可視の感情や抽象概念を伝達する場合や、過去に目撃、あるいは体験した出来事を伝達する場合に相当する。この場合は発声の対象が相手の内面にしか存在しないため、聞き手が認識した相手の意図が正しいかどうかを保証するものが何もない。そのような状況下で発話と応答の応酬を繰り返しても所詮「答え合わせ」のないプロセスであり、その結果得られる認識は、個人差のある各人の脳の特性によって独自に形成されてしまう。特に、抽象概念のようにどうやっても外形的な表現が不可能なものを伝達する場合、ギャップはより大きなものとなるだろう。つまり内面的な事物を伝えようとするならば、そこには原理的な誤差が不可避的に発生するのだ。もちろん、文字や映像といった副次的な伝達手段によって補完される現在においては<神話>時代ほどの誤差はないかもしれない。しかし、それもいまだ完璧ではない。今後の技術進歩により各自の脳同士がIT技術で直接連結する等が実現するまでは、期待として留保されたままである。