歴史の不在証明(17)
以上の考察は素描といったところなので、細部については反論の余地もあろう。しかし重要な点は、今日的な<歴史>が<神話>に対しどのような仮説を立てようとも、<科学>の必要条件たる<オッカムの剃刀>(最少の仮説であること)も<反証可能性>(実験や観測で立証できること)も満たさないということである。これは本論の最初でも述べたように、我々が入手しうる「過去」はあくまで「現在」の部分集団でしかないことに由来する。前に、「古代ギリシアのアテネ」を我々が想像する際にカラーの動画を思い浮かべてしまう矛盾について述べたのを覚えているだろうか。そのようなことが生じてしまうのは、「現在」我々が参照可能な「歴史映画」に影響されてのことである。つまり、我々が<過去>を想う時に利用可能なのは「現在」に存在する<過去>の「遺物」であり、さらにそれは、「歴史映画」のような当時作られたものでない「まがい物」<代替物>であってもかまわないということだ。これは「歴史映画」にとどまらない。「遺跡」にしろ「遺物」にしろ、各地で伝承された「神話」にしろ、それ自体はあくまで「現在」という集合に属するために、<過去>の構成要素そのものにはなりえない「まがい物」だということだ。よって原理的に、<歴史>は<過去>のいかなる事象をも立証することは不可能である。
そのように考えてみれば、結局、今日的な<歴史>が則らんとする<科学主義>は、「<科学>で使用されるのと同様の仮説を採用する」という志向(「そうありたい」と欲すること)であって、<科学>そのものの実現ではない(というより、実現できない)。なお、「<科学主義>であって<科学>ではない」という原理的な限界は、<経済学>等、<社会科学>と呼ばれる分野全体が持つ呪縛でもある。
以上述べたように、「歴史」上の出来事が本当に起きたことなのかどうか、真の意味(<科学>に則った形)で我々が知ることはできない。にも係わらず、これを理解しない人々によって「過去の歴史的イベント」を肯定的にとらえる陣営と否定的にとらえる陣営とで熾烈な論争が今日も繰り広げられている。特にこのイベントが戦時中の「虐殺」等であった場合は、政治的イデオロギーも相まって際限なくヒートアップする。その時に両陣営が決まって口にするのは(これも再掲であるが)「歴史的真実は唯ひとつのものである」云々である。「過去の真実が何であろうと自陣営が勝利したい」という動機ならまだ人情としてわからなくもないが、ここで立証したように「唯ひとつの歴史的真実など金輪際知ることはできない」のであるから、「真実を明らかにする」などといった学問的粉飾を施した無為な議論にだけは時間を浪費するのをやめた方がいいと助言したい。
それに対して、心理学者ユングは<神話>に異なるアプローチを行った。ただし、「神話」として口頭伝承されたストーリーが世代間を経て変遷していった、というところまでは<科学主義>によるアプローチと共通である。しかし、変遷の生起メカニズムが両者では全く異なる。ユングは、<元型>と呼ばれる人類共通のモチーフ(「物語」に登場する事物や筋運び)に沿った形でストーリーが変遷したことを主張し、「ドラゴン退治」であろうが「神による世界創世」であろうがストーリーの真贋そのものについては注目しなかった。繰り返しになるが、<過去>の出来事が本当に起きたかどうかを我々が知るのは不可能なのだから、<神話>の真贋を議論の俎上に上げなかった彼の態度は全くもって正しい。人類がなぜ<元型>と呼ばれるモチーフを共有しているのかについては、ユングは我々人類が無意識下で皆つながっているからだという仮説(集合的無意識仮説)を展開したが、それについてはここで関知しない。一方、<科学主義>によるアプローチは、例えば「ドラゴン退治」の「神話」であれば、原初に野生動物を仕留めた体験を現実に起きた<真実>としつつ(それを立証することなど不可能であるにもかかわらず)、その後の変遷は話者個人の資質(虚栄心や忖度、好奇心等)によって起きたり起きなかったり、変遷の程度が左右されるとする。個人がどのような資質を持つかは他者から計り知ることはできず、かつ万人に共通する明確な傾向などない(事前仮定がない)ので、結局のところ、変遷が個人の気まぐれで行き当たりばったりに起きているように見える。これは、客観的に見ると変遷はランダムに生起しているということである。したがって、<突然変異>というランダムな偶然によって進化が生じるというダーウィニズム的なメカニズムと言える。