歴史の不在証明(16)
<考古学>や<科学主義>による現在のメインストリームたる<歴史>が<神話>を扱う時、決して字義通りには解釈しない。例えば、「英雄による怪物退治」はどの地域の神話にも見られる普遍的なエピソードであるが、ドラゴンや半獣半人の怪物が実在したことを前提に議論をする研究者はいない。というより、<科学主義>に准じる姿勢が制約となって前提とすることができないのである。一方で、太古において<神話>は個々人が<歴史>に相当する概念として認知していたこと(これを以前<擬歴史>と呼んだことを思い出そう)は間違いないので、現在の<歴史>は次のような説明を行う。
<怪物退治神話>の起源として、有史以前の狩猟採集時代に、珍しい野生動物を仕留めた部族民のエビソードがあった(これならば<科学主義>にも反しない)。これを世代間で伝承していくうちに、話に尾ひれが付いていった。例えば、「通常よりも大きなトカゲを仕留めた」→「人間よりも大きな体長のトカゲを仕留めた」→「巨大なトカゲと格闘して仕留めた」→「毒を吐く巨大なトカゲと格闘して仕留めた」→「火を噴く巨大なトカゲを剣で仕留めた」→「火を噴き空を飛ぶ巨大なトカゲ(すなわちドラゴン)を伝説の剣と盾で仕留めた」といった具合だ。結果的に<科学主義>と反するドラゴンを登場させることにはなるが、そのプロセスは<科学主義>に反しないように思わるため好んで使われる仮説である。
しかし決して間違ってはならないのは、この仮説が<科学>に則っていないことである。<科学>として扱われるためには「なるべく少ない仮説で、なおかつ実験や観測で確かめられること」という条件を満たさなければならない(前者を<オッカムの剃刀>、後者を<反証可能性>と呼ぶ)。上の<怪物退治>仮説は話者が話を改変していったという仮説であったが、獲物が「大きい」と改変(仮説1)→「巨大」と改変(仮説2)→「毒を吐く」と改変(仮説3)→「火を噴く」と改変(仮説4)→「空を飛ぶ」と改変(仮説5)と、際限なく仮説の上に仮説を立ててしまっている。加えて、それらが実際に起きたことを立証するための実験や観測の方法、あるいはその手掛かりを提示できていない。おそらく、この話改変のプロセス(仮説1~5)が起きたのは有史以前(文字が登場する前)で口承によるものと考えられるため(これを仮説6とすると、1~5の上にさらに仮説を重ねている)、実験や観測で直接証拠を得ることが絶望的だからであろう(世界中の古い言い伝えや太古の壁画等から間接証拠を得ることは可能かもしれないが、所詮はそこ止まりである。このようなプロセスが実際に起きたと立証するには甚だ不十分である)。仮に、仮説1~5をまとめて「人間は聞き手に受けようとして話を盛るものだ」という仮説に置き換えたとしよう。いきなり人間心理に関する仮説に変わった点は大目に見るとしても、「受けようとする」「話を盛る」というのが表現として定義不十分である。その点を考慮して改めるなら「例え虚偽であったとしても、聞き手が興味を感じる内容に話を改変する」のようになるだろう。しかしこれは、意味が明確になった代わりにさらなる疑問を生じさせる。太古における<神話>は今日の<歴史>に相当し、部族長や神官(あるいは呪術師)が話者だったであろうことは現在の歴史家も認めるところであるが、そのような神聖かつ厳粛な話に対して虚偽を交えることがそれほど安易にできのだろうか? 現在のお笑い芸人が娯楽として話を膨らませるのとは決定的に状況が異なったはずである。仮に改変できたとしても、部族の集まりでいつも披露される話であろうことを考えると、聞き手の多くは同じ顔ぶれだったはずなので話に改変があればすぐに気づいたはず。そのような聴衆を相手に連続して話を改変し続けることが本当に可能だったのか? 上の<怪物退治>仮説の傍証としてよく引き合いに出されるのは「伝言ゲーム」で話が次々に改変されるメカニズムだが、あれは改変された話が次の話者以外には秘匿されている、つまり事後検証を人為的に不可能にしているために起きる現象だ。それなら、「<怪物退治>の話は一族の秘密として一子相伝のように伝えられてきたため伝言ゲームのような状況が成立していた」という仮説ではどうか?――それだと一子相伝の秘密の話が世界中に似た形で数多く分布していることと矛盾する。では人の性質が今とは違っていた、つまり「太古は文明化以前の世界だったため、今よりも虚栄心が強く不誠実だったので伝言ゲームのような状況が許されていた」では?――全く話にならない。そのように非合理的な精神を持った集団が幾世代もの長きにわたって社会を維持できたはずがない。ホモサピエンス以前の旧人類ですら、遺跡や遺物から高度に合理的な精神を持っていたであろうことが推測されているというのに。