歴史の不在証明(14)
ここで、さらに以下の命題を追加しよう。
文章そのものでなくても、文章に変換できるものは全て<物語>である。
これに当てはまるものの筆頭は<映画>である。再々掲となるが、以前私が書いたことを再び以下に示す。<映画>が文章化できることを端的に述べた部分である。
“映画の「プロトコル」が果たす本質的な機能とは、現象としての「映画」(フィルムに焼きつけられたカットの順序)に隠された文章を取り出し<物語>として概念化することだったのだ。”
他の媒体についても、同じように文章テクストを取り出す「プロトコル」を持っていれば<物語>となりうる。具体的には、テレビドラマや漫画、アニメーション、舞台演劇、ゲーム、個人や団体が制作した各種動画などだ。そのように考えれば、<物語>は現存する媒体のほとんどを浸食していることがわかる。では、なぜ<物語>はそこまでの影響力を持ちえたのか。それは、浸食される媒体の側にも少なからずメリットがあったからだ。すなわち、<物語>が本質的に持つ伝播力(より多くの受け手に届く能力)を我が物にできることである。初期の<映画>のような新興メディアは、当時、権威や実用性のような存在基盤が確立していかなった。対して、書物は教養の証としての権威を持っていたし、法律の条文や科学論文は実用性の故に意義があった。ただし、それらは媒体が発展する長い時間の中で培われたものであるため、どうあっても新興メディアには手に入らないものだった。存在基盤が脆弱な新興メディアは、もしそのままなら廃れていきメディア史に埋もれる存在になっただろう。そうならないよう、<映画>は<物語>の力を借りたのである。その結果、他の基盤よりもいささか軽薄ながら「万人が面白い」と認めることで存在の足場を得ることができた。そして今や<映画>は新興メディアではなくなり、大きな権威すら持つに至った。「万人が面白い」と認めなくても芸術的に高く評価される作品にはアカデミー賞を与える、といったことが可能なのも権威によるものと言えるだろう。<映画>だけでなく、その後に登場した新興メディアもほぼ例外なく<物語>の力を借りるという戦略を模倣した。例えば、youtubeで最初に投稿された動画は創業者が動物園で象を紹介するというものだった。たった18秒であり、これを文章化しようとしても先述した「事件情報」のようなものにしかならなかっただろう。ところが今や、動画には音楽やテロップが付き、ナビゲータ役の演者までが「適切」に配置され、その背景にストーリー(台本)があると容易に推察できる。つまり、文章化できるようなった=<物語>を取り入れたということだ。
ただ、このプロセスで単純に説明できないのが<歴史映画>の誕生である。またもや再々掲となるが、<歴史映画>の誕生について私は次のように書いていた。
“<映画>が本当に欲していたのは<物語>であって、<歴史>は物語の付け足しにすぎなかったと考える方が自然だ。ただ、「物語」を仮託する対象としてまさに「歴史」がうってつけであったため、ほぼ同時に登場したという流れであろう。”
これはこれで誤っているとは思わないが、これだけでは、<ストーリー(物語)映画>はともかくとして、<歴史映画>が誕生した必然が説明できていない。それを説明するには、<映画>以前に<歴史>が辿ってきた変遷に2系統があったことに触れなくてはならない。まず1つ目の系統は、以前述べたように中央集権的国家が莫大なコストをかけて編纂した世界史で、厳密な学問として体系化され(権威による基盤)国家存続の正当性を保証するもの(実用性による基盤)となった。これは、いわば<歴史>のメインストリームとでも言うべきものだ。メインストリームの担い手は、学者(当初は聖職者)、権力者であった。それに対し、大衆が担い手となった別の系統があった。<歴史物語>とも呼ぶべき<芸能>の1ジャンルである。日本では、歴史絵巻である「平家物語」を琵琶の楽曲にのせて娯楽に供していたのがこれにあたるし、西洋では吟遊詩人が叙事詩を音楽に合わせて歌い諸国を遍歴したのがあたるだろう。後の時代に、歴史的事件を演劇化して興業したのも当てはまる。庶民にとっての<歴史>とはこの<歴史物語>のことであり、<映画>が興業力の起爆剤として期待し招聘したのも実は<歴史物語>の方であった。つまり、大衆文化の文脈では<歴史>と<物語>は不可分だったのである。これが、<物語>と<歴史>が同時に<映画>に導入されたことに関する、より正確な説明である。なお、メインストリームの<歴史>は権威と実用性によって存在を保証された結果、現在、<物語>とは距離を置いている、というより<物語>性を喪失しているように思える(歴史の教科書や年表の記述を思い出してほしい)。それが現在、<歴史>が2系統に分かたれている端的な理由だ。しかし、後に詳しく述べるが、<歴史>というのは本来<物語>性なくしては成立しえないものである。そのことを現在の<歴史>(メインストリーム)は忘れているように思える。