歴史の不在証明(7)
以上見てきたように、「歴史映画」とは<歴史>を忠実に具現化すべく誕生したのではなく、興行主に利益をもたらすための商材として開発されたものだった。そのため興行側は、当初から「歴史映画」も所詮はフィクションと割り切っていたようだが、果たして観客の方はそうでなかった。「作り物」と知りつつも<歴史>に準ずる、特別な地位を「歴史映画」に与えたのだ。もっともそれは、先の『メアリー女王の処刑』で女優が本当に殉死したと当時の観客が思い込んだり、円谷英二が特撮を担当した『ハワイ・マレー沖海戦』を戦場で撮影された記録映像と信じたGHQが接収したといった、「昔の純朴な人が騙された」個々の逸話のことを言っているのではない(もしそうならば“<歴史>に準じる「歴史映画」”ではなく“<歴史>と錯誤された「歴史映画」”という表現を使っている)。そうではなく、これは現在も我々の<世界>を形づくる、認識から認知へと至る心的作用の話だ。
おそらく大抵の人は、「歴史映画」が<歴史>そのものでないことを十分わきまえていると主張するだろう。だが想像してみてほしい。「戦国時代の合戦風景」、あるいは「古代ギリシアのアテネ」と言われた時、あなたの脳裏には一体何が浮かぶだろうか。それはもしかすると、カラーで、実写の、しかも動画なのではないか。言っておくが戦国時代や古代ギリシアに関して(現在の部分集団としての)「歴史」の中に存在するのは、絵画や文書、口承だけである。ならば、近代以前の歴史を想う時、真っ先に脳裏に浮かぶのは絵、文字、話し声でなくてはなるまい。にも関わらず音声付きのカラー動画が思い浮かぶとしたら、それは紛れもなく「歴史映画」によっ我々の裡に刻印されたイメージに他ならない。そして我々は、歴史について書く、読む、話す、聞く時に、そのイメージを使って脳内で概念化しているのだ。概念化されたものは個々の認識において<歴史>そのものとなる。つまり賢ぶってはいるものの、我々の歴史観は「歴史映画」によって形成されているのだ。しかし先ほども述べたように、「歴史映画」とは資本家の私的利益追求のために作られたものであり、<事物の変遷の軌跡>という本来的な意味での<歴史>とは関わりがない。であれば、我々が個々に認知する<歴史>はいわば偽物の<歴史>だ。ここではそれを<擬歴史>と呼ぼう。
例え<擬歴史>ではあっても個々人にとっては大変有益なものだ。<家系>や<民族>といった自身の価値観に根拠を与え、社会に対して強く働きかけるための原動力となりうる。その結果、個人によって程度の差こそあれ<擬歴史>が各人のアイデンティティーの核を形成することとなる。それはそれで良いのだが、問題は<擬歴史>がその定義から無数のバリエーションの存在を許すためどれが正解かが確定できないことだ。ここで言う「正解」とは、実際に起きた「事物の変遷の軌跡」と最も近似した経緯の具現化である。だが、そもそも成り立ちとして「歴史映画」が「事物の変遷の軌跡」と無関係である以上、たまたま1つの<擬歴史>が正解に近かったとしてもそれを認識するすべがない。また、一度正解に近接したとしても、その後も近くあり続けることはほとんど不可能だろう(なぜなら「正解」が何かを決して知り得ないのだから)。そういう意味では、<擬歴史>はどれも等しく間違っている。しかし、それを「不正解」として棄却するなら我々は我々でいられない(なぜなら自己同一性の核であるから)。そうであるなら、我々が「歴史映画」をもとに各々の<擬歴史>をつくるのは決して阿呆だからではない。生存戦略としてそうせざるをえないからだ。
ここまでは「歴史映画」をことさらに取り上げてきたが、それ以前に誕生した「歴史語り」、「歴史書」、「歴史絵画」についても作用はおおむね同じであったことだろう。いずれも個々の内面に<擬歴史>を育み、人格形成の主要因として機能してきたと考えられる。
と、個人的な事情についてはわかった。しかしそれでもなお問題が残る。それは、それぞれ異なる<擬歴史>から形成された人間同士だと共通の価値観を持つことができないということだ。共通の価値観が持てなければ狩猟や農業で協業を行うことは難しく、協業なくして社会が生まれることもない。しかし実際には、協業、その高度な進化型である分業により人類全体が相互に結合された国際社会に至るまでの発展を遂げてきた。そこでは一体何が起きたのか。
<擬歴史>は見る、聞く、読むといった私的な体験によって形成される。だから個人の強い動機、活動理由となる。しかしそれが価値観の相違を生む。価値観を統一するには誰かの<擬歴史>を我が物として皆が共有できれば良いのだが、自己の体験に根ざさない概念は個人のモチベーションを大いに下げるだろう。したがって、社会の成員が最大パフォーマンスを発揮するには私的体験に根ざす<擬歴史>でなくてはならない。ではどうするか。我々の先人はこの問題に対し、相手の<擬歴史>を解釈する、つまり、相手の語る「歴史」が自分の<擬歴史>において何に対応するのかというルールについて合意するという解決策をとった。つまり、「プロトコル」の発明である。