歴史の不在証明(4)
結論から先に述べるなら、前後する映画のカットに因果律を見いだすため利用されたのは「物語」であった。物語の最も古い形態は、文字あるいは話し言葉によって構成される、有限個の記号の集合たる現実(現在)の部分集団である。今日でも「物語」と言えば書物や言葉語りが想像されることの方が多いだろう。無論、近現代では映像や音声で構成される物語もあるのだが、それについては後述する。ひとまずは、文章や口承の物語に関して考察を進める。まず、物語を構成する要素の基本単位は語(Word)である。1つの文字や発声時の1音ではない。なぜなら、文字や音まで分解されるともはや単体では意味をなさないが故に、例えば商品の型番やかけ声といった、物語以外をも含む広範な事物の構成要素となるからである。語は、直前あるいは直後の語と等価(もしくは非等価)であるという関係性によって連結されると「文」という新たな集団を形作り、さらにその文が前後(この場合は必ずしも直前直後でなくともよい)の文を説明すると「文節」というさらに上位の集団を形成する。文節も同様にさらなる上位集団である「段落」を構成する。段落はさらに「章」を形成し、章が集まればついに「物語」となる。このように、文章や口承による物語は 語→文→文節→段落→章→物語 という高度に構造化された情報である、という特性を持つ。その構造は樹形図(ツリーダイアグラム)として容易に図示することも可能なので、物語とは2次元構造をもった情報体と言い換えることもできるだろう。それに対して、歴史は必ずしもこのような2次元構造を持たない。例えば、年表などは明らかに1次元配列(線的なつながり)である。
ただし、現実を構成する現象として我々が普段目にする「物語」は文字や発音の単なる1次元配列であり、決して2次元図(平面)ではないことも忘れてはならない。我々が1次元配列(文章や発話)の格助詞や修飾語の機能による配列の法則、単にその前後関係を読み解くことで、背後にある2次元構造を心中において補完しているだけである。このことは、樹形図のような2次元構造が表しているのはあくまで「概念」であり、それを1次元に写像したのが現象としての物語である、と言い換えることもできる。
しかしなぜ、2次元の概念のまま現実に立ち現れることはせず、1次元に写像するなどといった迂遠な実装になっているのだろうか。それは前にも述べた通り、現在=現実は過去との因果関係から解放されているため、その構成要素は相互に関連を持たず無意味に存在しているのみだからである。そのような場では関連性と意味の具現化ともいえる樹形図のような概念は直接存在しえず、唯一存在が許されるのは、我々の心中、思考においてのみである。だが我々は「考える葦」の例え通り、思考中の概念こそ「真の存在だ」という強い確信を抱いている(決定的な根拠がないにもかかわらず)。だから真の存在を現実に具現化したいという根源的な欲求を生来持つことになる。ところが現実は無秩序で無慈悲な荒野であるためそのままの実現はかなわない。そこで、現実と欲求との折衷案として採用されたのが例の写像だった。かくして、「現象としての物語」(1次元)を読み解けば概念としての「真の物語」(2次元)が思考の中で再生される、という共通の了解(プロトコル)が採用された……それが真実かどうかには関わりなく。このプロトコルは現象としての映画にも援用されている。すなわち、現象としての映画(フィルムに焼きつけられたカットの順序)を読み解けば、真の映画(カットの順序が意味する因果関係、すなわち物語)が解るといった具合だ。またそれは、現象としての歴史(現在の部分集団としての文字、音声、映像の集合)と真の歴史(現在の事物が指し示す因果関係、すなわち民族あるいは国家の発祥と発展の物語)との関係と対称性(シンメトリ)を成している。
以上のことから、「真の○○」というやつは我々の心中、思考の中でのみ存在していることが明らかになった。ならば、「真の歴史」も心中にしかなく現実に存在していないのだから不在証明は完了? いや、事はそう単純ではない。例えば、日本人と中国人の近代に関する「真の歴史」が大きく異なっているというのは、ここまでの議論から考えれば整合的であり、むしろその方が自然に思える。異常なのは、日本人同士、あるいは中国人同士なら「真の歴史」がある程度共通していることである。愛国教育があるから? しかし、その教育で提示されるのは文字、音声、映像の1次元配置であり、そこからどのような概念を読み取るかについては共有されていない。共有されているのは「1次元配置を解読することで真の歴史が得られるだろう」という期待(見通し)だけである。ならば異なる出自と成長過程を持つ個々人が読み取る概念は、(いくら扇情的なプロパガンダに触れたとしても)本来ならば共通点のない無秩序な傾向を持つはずである。しかし実際は、同じ国家、地域、組織、一族に属していれば「真の歴史」として想起するものに明らかな類似点が見られる。日本なんて愛国教育と呼べるようなものはほとんど無いにもかかわらずだ。ここまでの議論は、その疑問に答える原理を示していない。おそらく、我々がなぜ「思考中の概念こそ真の存在だ」と確信するのかに関わりがあると思われるが、それを解き明かすにはさらに考察を深化する必要がある。