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悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
理論編
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幽霊の存在可能性の証明(4)

 はい、また話が横にそれました。元に戻します。そのために、「幽霊は精神ウイルス(精神的な寄生体)である」という仮説を暫定的に採用してみよう。でも「寄生」っていうけど、コンピュータ・ウイルスはインターネットやLANのようなコンピュータのネットワークが感染経路(媒介)だし、自然界のウイルスは水や空気・ だ液なんかの分泌物が媒介になる。同じ「ウイルス」という名が付いてても媒介物が全く違う。では、精神ウイルスを媒介しているのは一体何だろう?


 コンピュータ・ウイルスがコンピュータのネットワークを媒介にするのにはちゃんとした理由がある。それは、コンピュータ・ウイルスの実体が0と1のビットで構成されるデジタルデータだってことだ。コンピュータ・ネットワークはデジタルデータを遠隔地まで伝送するために作られたインフラなんだから、そこを通って感染先に行くのが最も効率が良く理にかなっている。自然界のウイルスだって、実体が遺伝子(化学物質としてはDNAかRNAの核酸)で酵素を触媒とした化学反応で複製や編集を行うから、化学反応が起こる気体や液体を媒介にしたというのが理由だ。つまりどんな媒介を選ぶかは、寄生する実体が何なのかに依存して決まっている。では、精神ウイルスの実体とは何だ? いや、そりゃ名前通り精神でしょ、ってちょっと待って。そもそも精神って一体何?


 「精神とは何か?」──これを哲学的に考え始めちゃうとおそらくオレが生きてる間に答えは出てこない。でも極めて主観的に考えるなら、それは「私」という自我の拠り所ということになるだろう。「私」という自我は肉体の中に生まれる。でも肉体に最初から備わっているものではない。なぜなら、生まれたばかりの赤ちゃんに「私」はまだ生じてないか、あってもごく希薄だからだ。肉体があり、それを介して経験を積むことにより次第に形成されていく。どんな経験か? 日を浴びる、風に吹かれる、雨に打たれるといった自然現象からの干渉を受けることもあるが、人間の場合は、家族、親戚、友人、仕事相手などから成る社会と相互作用(コミュニケーション)する方が、より「私」を形成する糧となるだろう。その結果、「私」は記憶や行動パターン、趣味趣向といった形で発現する。いったん発現すれば、記憶・行動パターン・趣味趣向は情報として記録、伝達することも可能になる。内面で「私」がどのように活動していようとも、他人が認識できるのはこの情報だけだ。なので、他人にとっては記憶・行動パターン・趣味趣向に関する情報が「私」とほぼ同義ということになる。だとするなら「私」とはつまるところ情報なのではないか、少なくとも他者同士が形成する社会の中にあっては。ただし、ただの情報ではないことにも注意しなくちゃならない。


 「私」に関する記憶・行動パターン・趣味趣向自体は単なる情報だが、それを伝達された人間に必ず何がしかの影響を与える。昔のことを蒸し返されて腹が立ったり、ちょっとした仕草で恋心を抱いたり、同じ推しキャラで意気投合したり等々、感情を否応なく喚起され、それが蓄積することで「私」に対する一定のイメージが形成される。「嫌なヤツ」「好きな人」「計算高い」「馬鹿正直」……そんな「私」に関するイメージが固定化された時点で、オレは精神ウイルスが「寄生」を完了すると考えてる。


 自分がよく知っている人間、家族でも友人でもいいから頭に思い浮かべてほしい。イメージした人物に対して、心の中で「バーカ」と言ってみよう。すると相手がどんな反応をするか、だいたい想像つくんじゃないだろうか。そこから始まる自分と相手の口げんかを、ヘタをすると心の中で会話として淀みなく続けられるんじゃないだろうか。オレなんか上司から腹立つこと言われたら、帰ってもムカムカムカムカしてきて気付いたら頭の中でずっとアイツと口論してるわ。


 その時不思議なのは、心の中で相手が言うセリフは「○○だからこう言うにちがいない」とか自分でいちいち考えて喋らせてるわけじゃないってことだな。それどころか、そんなコト考えるスキもなく相手は即座に反論してくるし。そんなときって、心の中に自分の知らない誰かが本当に住みついてるみたいな感じしない?


 オレを知ってる人の心の中には、その人から見た“オレ”の像(イメージ)がある。同じように、オレの心の中にはオレから見た“他人”の像がある。そして大抵の場合、他人から見た“オレ”は、オレが「自分はこーゆーヤツだ」と考えてる“オレ像”とは違う。それは知り合いに自分の欠点とか指摘されてるときによーく自覚する。だから、口げんかで相手がののしってるのは厳密にはオレ自身じゃなくて、そいつの心の中にいる“オレ像”ということになる。ところが、そういう他人の“オレ像”をコミュニケーションの最中に提示されることで、「ああ、オレってそんな風に思われてたんだー」という感慨(感情)が生まれ、その結果自分の中の“オレ像”が微修正されたりもする。「ははーん、オレって自分が思うほど周りに好かれてないな?」みたいな。そうゆう意味じゃ、他人は自分の本当の姿を映す鏡みたいなものなのかもね。精神分析学者のラカンが言った「鏡像理論」って確かそーゆー感じのアレだったと思う。


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