表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
悪魔ちゃん  作者: 神保 知己夫
本編
102/182

2017年3月(16)

 それじゃあ、ここでちょっと議論を巻き戻そうか。ここまでやってきた「宇宙」の目的やら「個人」の目的に関する議論のくだりで、最初に俺がこう言ったの覚えてる?


“もし個人が死んで彼に付随する「自分」が消えたとしても、宇宙全体としての「自分」は残っているため、結局、「自分」が失われたことによる損失は発生しない”


 これってさ、「損失は発生しない」の主体が誰なのか、つまり「誰に対して発生しない」のかが重要だと思うんだよ。ま、このときはそれがわかった上でボカして言ったんだけどね。で、それに対する反論もこのとき一緒に紹介した。


“宇宙全体としての「自分」と個人の「自分」は全く別物なので、たとえ個人の死後に宇宙の「自分」が残ったとしても代わりにはなりえない”


 誰の損失なのかを俺がボカしたせいで、それが 「宇宙にとっての損失」だと思った人もそこそこいたと思う。しかし、この反論者は明らかに損失の主体を「個人」だと解釈してるよね。だから、「宇宙としての自分が残ること」は「個人としての自分の消失」の補償にはならないって言ってるわけだ。そこに、おそらくだけど「たとえ宇宙が残っても俺自身(自分)は消えて無くなっちゃうんだろ?(そんなのイヤだー!)」っていう感情も上乗せされてるんだろう。あ、いや、損失の主体についての解釈はこの反論者の言う通りで間違いない。ただ、「補償にはならない」っていう結論には同意できないので再反論する必要があったんだけど、それにはいろいろと前置きの議論が必要だったんでいったん「誰が主体か」をボカしたわけ。でも、ここまで一応 “「宇宙」が生命体の目的に「繁殖」を設定した” ことを論証できたんで、再反論の準備はこれで整った。


 生命体、特に我々人間のあらゆる行動の動機は、ほとんど全てが「繁殖」という目的の実現につながる。人間の場合、ごく稀に自己の「繁殖」に貢献しない、あるいは「繁殖」を阻害するような行動をとることがあるが(「自己犠牲」とか「共助」とか)、しかし、それですら最終的には「繁殖」を間接的に促進するよう出来ている。そういう意味では、我々人間は「繁殖」するために存在していると言える。なぜそうなったかといえば、「宇宙」がそのように我々を創ったから、という理由はすでに述べた。その結果として、生命体は「エントロピー増大」の余地がある領域を自ら見つけ出し、そこで「繁殖」するために資源やエネルギーを消費することで「エントロピー増大」をさらに加速させる。すると、最終的に「宇宙」はいたる(ところ)でまんべんなく均一に資源やエネルギーが食い尽くされた「エントロピー最大」の状態、つまり「熱的死」へと速く至ることができる(もちろん、そうなるためには地球上の生命体だけじゃとうてい不足なので、遠く離れた別の星系に()む生命体も「繁殖」を目的に資源やエネルギーの消費にいそしんでいることが前提となる)。「宇宙」の目的とは、まさにそういう「一刻も早い終焉への到達」であって、その助けになるよう「繁殖」という副次的な目的が生命体に与えられたと考えられる。


 しかし、その目的はあくまで「副次的」なものであって、生命体、ひいては我々人間の「主目的」は依然として「宇宙が終焉に一刻も早く至ること」である。なぜなら、我々は「生命体」であるよりも前に、「宇宙」を形成する構成物質の一部だからだ。我々人間の実体が物質であることを認める以上(つまり、物質的な(ことわり)を超えた神仏や霊魂、精霊といった類の存在を認めるのでもなければ)、そのことからは逃れられない。そして「主目的である」とは、それが達成されなければ「副次的目的」が達成されても意味がないことを意味する。また逆に、もし「主目的」が達成されるなら「副次的目的」が未達成でも問題はないことも意味する。よって、我々個人の「副次的目的」である「繁殖」が例え「死」によって断絶しても、他の個人が「宇宙の終焉の促進」という「主目的」を遅滞なく引き継ぐので「損失は発生しない」ことになる。これは、「宇宙にとっての損失」が発生しないのはもちろんのこと、「我々(個人)にとっての損失」も発生しないという意味でもある(なぜなら「主目的の達成」に影響しないので)。それをもう少しかみ砕いて言うと、“もしあなたが死んで消え去ったとしても世界(宇宙)は何も失わないし、あなた自身も「自我の消失」によって何一つ失うものはない” となる。それでも、やっぱり「何がしか」が失われるようにあなたが感じるとしたら、それは錯覚でしかないので早くその事実に気付いた方がいい。


 再反論は以上だが、それに感情的な反発を覚える人が少なからずいるだろうことは予想できる。上の言い方は、人によっては「あなたなど失われても誰も困らない」と突き放されてるように感じるだろうし、そんなことを言う俺は「生など無意味だ」と(はす)に構えるニヒリストに見えるかもしれない。しかし、これでも俺は死が人並みに恐いので、全てを否定する「虚無主義者」でも、自ら死を望むような「自殺志願者」でもない。しかし、それでもやはり事実は事実である。俺の「食欲」も「性欲」も「睡眠欲」も、自らが望んでいるようでありながら、その(じつ)「宇宙」によってそうなるようチューニングされた「設定」の産物でしかないのだ。つまり、それは真の意味での「俺自身の目的」ではないということだ。もちろん、その他の欲求である「勤労欲」や「社会参加意欲」、「権力欲」なんかも同様だ。それらは、そう「設定」することで俺が自発的に資源やエネルギーを消費し、その結果「エントロピー増大」を推進させることを期待して「宇宙」が調整した結果にすぎない。もちろんそれは「欲求」に限った話ではない。定義上は「欲求」のカテゴリに当てはまらなくとも、人間が行動を起こす動機になりうる概念なら全て他者(宇宙)に植え付けられた「設定」と言える。例えば、一般に人間の善性とされるもの、儒教でいう「仁(思いやり)」「義(正義)」「礼(礼節)」「智(道理のわきまえ)」「信(誠実さ)」なんかもそうだ。というか、これらは広義に解釈するなら、初期の心理学において「高次欲求」と呼ばれた、直接的な欲望の充足は求めないものの最終的にはそこへとつながる「欲求」そのものだ。「愛」や「利他主義」なんかも結局は同じである。


 そして、個々人がもつ「自分」という概念は、それら「欲求」の充足をサポートすべく、やはり「宇宙」によって植え付けられたメタ的な「設定」にすぎない。このメタ「設定」があることによって、生命体は「欲求充足」のリミッターが外れ、自己にとって必要以上の「欲求」充足を求めるようになる。なぜなら、自分で消費できる範囲を超えて集めてしまった資源・エネルギーであっても、自分以外に再配分すれば他者の「支配」や他者からの「承認(尊敬や羨望)」といった「二次的な欲求」を満たすことができるからだ。そのことに気付き学習した生命体は、際限のない「欲求」に駆られて資源・エネルギーを果てしなく集め出すようになる。実際、「食欲」や「性欲」や「睡眠欲」のような身体的感覚に根ざした「一次的な欲求」は、ある一定量を消費すればそれ以上求めなくなるが、「二次的な欲求」に基づく行動にはそのような制限が必ずしも存在しないことは我々も経験上知るところである。なお、善性とされる「愛」や「賢智(賢さと知恵)」も「二次的な欲求」の一種だが、むしろそれらを持つ者ほど、他者に与えたり物事を成功させるためにより多くの資源・エネルギーを集めようとするので、「欲求充足」のリミッターを外すという点では「支配」や「承認」の欲求と変わらない。


 そしてそれは、「宇宙」にとってこれ以上なく好ましい「機能」といえる。なぜなら、生命体が「自分」という概念をもつことで「エントロピー増大」がますます促進されたのだから。つまり、個人にとっての「自分」という概念は、実は「宇宙」が自らの(こう言ってよければ「利己的な」)目的を果たすため一方的に我々へ付与したものにすぎないのだ。にもかかわらず、ある社会調査によると無神論者や唯物論者で死を恐れる人らは、死によって「自己/自我が消失すること」が恐怖の源泉になっているのだという。つまり、かみ砕いて言えば「自分が消えて無くなる」のが何より恐いってことだ。しかし俺はその人らに是非とも言いたい。あなたが消えてほしくないと思ってる「自分」とは、決してあなた自身によって獲得されたものでもなく、また、あなた自身の中から自然に発生したものでもありませんよ、と。それは、実際には他者(「宇宙」)が自分の都合で押しつけたものでしかありません。だとしたら、あなたが日頃「あなた自身」だと信じている「自分」は、実はあなた自身じゃないのではないですか? なぜなら、あなたの言う「自分」とは、あなた自身の目的を実現する存在ではなく、「宇宙」という他人の目的の体現者でしかないのですから。したがって、あなた個人の物質的な身体のみに根ざした「あなた」などというのは、実際には存在していないのです。本当に存在しているのは、「あなた」の仮面をかぶった「宇宙」(としての「自分」)だけです。でもあなたはそのことを忘れ、今は仮面をはぎ取られまいと必死に抵抗しています。どうか一日も早く、そのような錯覚から目を覚まされますよう。


 しかし、これだけ言ってもなお納得できないという人もいるだろう。それはたぶん、俺の言う理屈が理解できないからじゃなく、そこでの結論に経験則的な実感が伴わないためじゃないだろうか。なのでそのギャップを埋めるべく、いずれ我々が死を迎えたとき、俺の理屈にしたがうと一体どんな経験をするのかをここで予測してみようと思う。いや、実は俺も俺の出した結論に実感など伴っていないんだが、ただ、理屈で考えたことは理屈にしたがって先を予測するのはできるので。それで考えると、我々が死にゆくとき脳に集積した神経系の活動が次々と停止していくにつれ、個人としての「自分」の自意識は徐々に雲散霧消していく。これはもう二度と元に戻ることはない。そして死後、火葬なり腐敗なりで生前に肉体を構成していた物質が散逸し、バラバラになったそれらの欠片(かけら)が地球環境の中で様々な物理現象を起こす物質の機構へと再編されていく。例えば、地球の大気システム、海流システム、地殻変動や火山システムといった機構へ。そして、それぞれの欠片が新たに組み込まれた機構の中で(前に説明した)「自然計算」を実現する機能の一部を担い始めた時、欠片はもはや欠片ではなく、自らを含めた全体構造、例えば「大気システム」なら高気圧、低気圧、前線、台風といった、ある程度独立して変動する物理現象の単位(そのような単位を「自己組織化機構」ともいう)全体を改めて「自分」と認識するのではないかと俺は推測している。それは例えて言うなら、ある企業の子会社が解体され、そこに所属する社員が親会社の各事業所に再配置される状況と似ている。解体される前の子会社では、そこに所属する社員は自分のことを「子会社の社員」と認識し、「子会社」全体の利益を考えて日々の業務を担っていることだろう。また、顧客や取引先といった「社外」とやりとりする際には「弊社はこう考えます」といったように、自身を「子会社」そのものだと認識する瞬間もあるはずだ。この状況は、単なる物質にすぎない肉体の(主に脳の)構成分子が、自分のことをあたかも「肉体全体」であるかのように認識している状態に相当する。その後、子会社が業績不振等で解体され親会社に配置転換されたとき、しばらくの間、彼は自分のことを「元子会社の社員」だと認識しているかもしれない。しかし親会社での業務に慣れてくると、今度は必ず自分のことを「親会社」と同一視する瞬間が訪れるはずだ。これは肉体の死後、構成分子が地球環境の様々な物理システムに再編され、そのシステム自体を自分だと認識している状況に相当する。会社員の例えに戻ると、親会社での所属先が「経営企画室」や「総務部」のような会社の「頭脳」ともいえる部署だった場合、彼は「親会社」やその「社員」というだけでなく、「企業グループの所属会社」「業界団体の一員」「企業戦略の策定者」「各事業部の業績評価者」といった複数の自意識を、しかも同時にもつことができる。なぜなら、彼は実際にそのような肩書を「兼務」しているはずだからだ。一方、一般的には子会社の所属であっても「兼務」はありうるが、もし「子会社」の事業が特殊な分野に特化したものであるならば、社員も専門性の高い単一業務だけを担う「単務」である可能性は高い。その場合、彼は他の業務を「兼務」できないので、自意識はせいぜい「(特殊な)子会社の社員」あるいは「子会社」そのものにとどまるだろう。このような自意識の違いは、肉体の構成分子と再編成先の地球環境の間でも起こりうる。なぜなら、生命体の肉体は「繁殖」という独自かつ専門性の高い「特殊な分野」での機能を担っているからだ(「繁殖」は再帰的かつ無期限な物理現象の継続という点で一般的な物理現象とはだいぶ異なる)。その場合、構成分子の機能は単一もしくは限定された目的に特化した「単務」型となるので、自意識をもちうるとしてもせいぜい「肉体の一部」あるいは「肉体」そのものにとどまるだろう。実際、我々は自分の「脳」「手足」「内臓」といった物理的部位のいずれも「自分(という肉体)」だと自覚している。一方、死後に分解された物理的欠片(構成分子)は、「大気システム」なら「高気圧」「低気圧」「前線」「台風」のいずれの機能も同時に「兼務」しうるし、その機能も専門性はさほど高くない(光や熱を吸収して膨張したり水を気化する程度)。よって、この場合の自意識は「大気」「高気圧」「低気圧」「前線」「台風」のいずれでもありうるし、いくつかを同時にもつこともありうる。さて、ここで「親会社」と「子会社」の例えを持ち出したのは、次のことを考えてほしいからだ。現代社会で我々が企業に所属し、あるとき「単務」から「兼務」へと配置転換されるとして、果たして「子会社の社員としてのアンデンティティーが無くなってしまう!」と恐怖したり、「兼務になったときに自分がどうなるのかわからない」といちいち騒ぐだろうか? もし「そんなことはない」「そんな社員はおかしい」と思うなら、死による「自分の消滅」をいたずらに恐れるのも実は同じなのだ、ということに気付いてほしい。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ