第八話
執務室に入り、シアンをベッドに下ろした。俺はその傍らに腰掛ける。しばらく彼女はそっぽを向いていたが、やがてぼそっと呟いた。
「なんで、来てくれたの」
何とでも答えられた。しかし、俺は彼女に報いなければならない。せめて己の心を正直に明かすくらいが、俺にできることだ。
そう決めていたのだが、いざ言う段階になって途端に恥ずかしくなってきた。気持ち悪いとか思われやしないだろうか。いや、嫌われてはいないはずだ。なら大丈夫、大丈夫、よし、大丈夫だ。
「……どしたの?」
「えーとね。そのだね。あのー……シアンがいなくて寂しかったんだ」
彼女は何も聞いていなかったかのように無反応だった。俺は恐る恐る言葉を足していく。
「それで、心配になった。シアンの手料理も食べたかったし、まあ、とにかく、その、なんだろう。会いたかったんだよ。だから探しに行った。それだけ」
シアンは何もなかったかのように表情は変わらなかった。だが、ひっそりと耳が赤くなっていた。ついでに言えば俺の顔も赤くなっている。原因はわかっていた。
これでは完全に、男女の睦言ではないか。もしかして俺は彼女にそういう感情を抱いていたのか? 自覚がないだけで? そんなはずはあるまい。彼女は大切な部下だ。従士だ。親愛の情に違いない。そうだと思うことにした。
俺が自分を落ち着かせるのと、彼女が暴れ出すのはほぼ同時だった。
「えっちょっ、は!? バカなんじゃないの! バカなんじゃないのもう! 本当に!」
シアンはばたばたと足を暴れさせ、ついでに俺の背中を蹴り飛ばした。
「アホ! バカ! ジャック! いらないところで正直! 考えなし! なんでそこで止めるわけ!? アホ!」
「アホ二回言ってるよ」
「うっさい! こっち見ないで!」
彼女は布団を頭から被った。
仕方ない。居住区の様子でも見に行こう。立ち上がろうと手をベッドについたところで、彼女の足が飛んできた。俺の服部を挟み込んでいる。
「……どうしたの?」
「行かないで」
「え? いや、見るなって」
「目閉じてて、そこで」
彼女の声には九割の激怒と一割の悲しみが混在していた。これは連合して十二割の圧力となり、俺の身体をベッドに押し付けた。
「わかった」
俺は目を閉じ、腕を組んだ。彼女の足が引いていくと同時に、布の擦れる音がした。彼女は俺の背中を指先で撫で始めた。
言いたかった。一体何をしているのか問いたかった。だが俺にはわかる。シアンとの長い付き合いが語っている。触れてはいけないと。俺はただ、彼女の為すままにしておく他にないのだと。竜の逆鱗を踏んだ愚か者にできるのは、ただ踏みつぶされるだけである。俺は無言で背中を擦られ続けた。ちょっと安心している自分がいて、戦慄した。
十分ほどでシアンは気が済んだらしい。目を開けろと言われたので開けると、彼女は隣に座っていた。彼女はちらりとこちらを伺うと、ふっと表情を緩めた。
「助かった。ありがとね、来てくれて」
思わず、目を彼女の顔から背けてしまった。その笑顔はあまりに魅力的だった。こんなに素敵に笑えるんだから、心配しなくても良いだろう。
「そっか。なら、良かった」
「ところでさ。工事、終わったの?」
咄嗟に振り向いた。その笑顔は優しいものから、何か空恐ろしいものへと変わっていた。俺の表情から何かを読み取ったらしく、呆れたような、揶揄うような声が響いた。
「そんなことだろうと思ったわよ。魔力、あとどれくらい?」
「二割。あ、体調の都合で二割じゃないから。二割使い切ったら気絶するって意味ね」
「そっか。私もそのくらい」
残魔力が一割を切ったところで、明確に体調不良になる。二割というのはまともに動けるデッドラインだ。お互いに少しの魔力消費で倒れる段階まで追い詰められたということだ。村人も大勢亡くなってしまった。無言でいると、彼女が甘えるように言った。
「……ね、今日はもう休んじゃお」
「良いのか?」
「私もジャックも最善を尽くした。村の人たちが亡くなったのは悲しいし、悔しいけど。でも、最大限手は尽くしたはずよ。上手い手じゃなかったとしてもね」
その表情に憂いはなかった。俺は腑に落ちた気がした。彼女がダンジョンに入ろうとしなかったのは、負い目だ。村人たちへの負い目。守り切れなかった自分が、彼らと共にいることに耐えられなかったのだろう。
こういう時、俺は無力だ。こんな言葉しか吐けないのだから。
「俺は、シアンの主君だ。俺の考えが甘かったってところもある。だから、シアンは背負いこまなくていい。悪いのは俺だ」
「……そういうのは、普段は私の役割なんだけどね。それにジャックに背負わせるのも本望じゃないし。何か――そうだ、こういうのどう?」
「何?」
「世界が悪い。だいたい、魔王が死ぬからこういうことになるのよ。やっぱり全部あいつのせいじゃない? それにほら、あの魔王なら責任擦り付けても、笑って許してくれそうじゃない」
確かに、魔王なら許してくれそうだ。
「そうだね。何もかも、全部世界と魔王が悪い」
彼女は笑っていたが、ある程度笑ったところで溜息をついた。次いで儚い微笑を浮かべ、消え入りそうな調子で言った。
「なら、さ。作ろうよ。こんな思いしなくてもいい世界」
無理だ。そう言おうとして、口を噤んだ。本当の所はどうだろうか。俺もそんな世界を望んでいたんじゃないか。魔界が統一されたあの日、なぜ俺はあんなにも嬉しかったのか。魔王が人界への侵攻を決めた時、なぜ俺は馬鹿のように反対したのか。
理想の焼け跡が、心の中で燻っている。再び火を灯すことはない。もう燃え尽きてしまったから。でも、確かにまだ熱は持っている。
「……手の届く範囲でなら」
零した言葉に、シアンは何を思ったのだろう。彼女は俯いたままだったが、そっと俺の手を握って、軽く押した。
「うん」
俺の――いや一人じゃない。
俺たちサレオス伯家は、こうして新たな目標を見出した。