第五話
物音に誘われて目を開くと、テーブルの上では食事の支度が進んでいた。時計を見ると、朝の八時である。配膳を行っていたシアンは、俺に気づくと小さく頭を下げた。
彼女はこのダンジョンの家事を一手に引き受けてくれている。この間だけ、俺たちは上司と部下、ひいては伯爵と従士の関係になる決まりだ。何でもメリハリをつけたいらしい。つまり、シアンの激怒大会が始まるのは食後になるはずだ。心底嬉しかった。
数分後俺は考えを改めていた。甘かった。朝食は明らかに何というか、こう、手抜きではないのだが、物凄く簡素だった。パンと薄い塩味のスープ、以上。これは何かの罰ゲームだろうか。とはいえ、出されたものは食べねばなるまい。
「いただきます」
食事中、あまりの微妙さに走馬灯が見えた。次々に思考が浮かんでは消えていく。これは間違っても伯爵に出す食事ではないとか、メリハリをつけるとはなんだったんだとか、まさか彼女は俺と一緒に食事をとりたくなかっただけなのでは、とか。不幸な時はロクなことを考えないものである。暗い考えに浸っていると、気づけば食べ終わっていた。
顔を上げると、シアンが良い笑顔を浮かべていた。
「お味はどうでしょうか、御主人様」
「不味い」
「左様ですか、申し訳ございません。何卒お許しを」
彼女は不気味なくらい丁寧な口調で頭を下げた。そして、顔を上げるとウィンクした。慇懃無礼の教科書に乗せても良いレベルだった。そして皿を下げ戻ってくると、彼女は勝手に俺のベッドに腰かけた。
「で、何話してたの」
意外にも、彼女の様子は責めるというよりは呆れに近かった。勝った。不味いスープを飲み干してやったことで、罪悪感の一つでも湧いてくれたか。俺の表情が喜色満面へと変わっていくのとは対照的に、シアンはだんだん目が死んでいき、眉間に皺が寄っていった。
「で?」
どす黒い意志に気圧され、俺はつらつらと昨日の流れ、そして決まった計画について説明した。言い切るや否や、俺は即座に媚を売った。
「ごめん、シアンに相談しないで決めちゃって」
「うわ、わざとらしい。ま、いいのよ。あくまでも領主はジャックだし、計画自体にも賛成だし」
その言葉とは裏腹に、表情はどこか沈んでいた。何か憂いがあるのだろうか。
「どうしたんだい、何でも言ってよ」
「……何でもないわよ」
「本当に? そうは見えないけど」
「ないったらないの! 大事なことを私が言わなかったことがある!?」
「いや、そりゃないけど」
彼女は鼻を鳴らし、俺に背を向けた。ぶつぶつと何かを言っているらしい。拾えた単語は「他の人も」「忙しくなる」の二つだけだった。組み合わせると、暗号のように意味が浮かび上がってきた。
「大丈夫。村人の食事の面倒を見ろとか、そういう面倒なことは言わないよ」
次の瞬間、俺は脛を軽く蹴られた。何やら葛藤していたようが、何がいけなかったのかわからない。彼女はそのまま部屋を出て行ってしまったので、真意を聞くことも叶わないのだろう。
ともあれ彼女の賛成も得られた以上、俺のやることは一つである。
「……やるか、ダンジョン拡張」
俺はげんなりした表情を浮かべたまま、執務室を出た。
部屋の外に出た途端、壁にシアンが寄りかかっているのを見て笑ってしまった。誰が俺を責められよう、彼女は手伝ってくれる気なのだ。物資の管理は彼女に任せているので、村の在庫状況を伝えた。俺には倉庫が何部屋、どれくらいの大きさで必要かわからないのだ。
彼女はんー、と頭を掻くと、空中に魔力で文字を書き始めた。何やら計算しているらしい。数分後、彼女は溜息と共に指を止めた。
「倉庫は十部屋あればいいわ。あと、住むための部屋の間取りもどうせ考えてないんでしょ」
「さすがシアン。俺をよくわかってくれてる」
「バカじゃないの。ほんっと、私がついてないとダメね。とりあえずこっちに広げるわよ」
彼女は既にある倉庫の側、つまり左側へ進んでいった。とはいえ、元より広いわけではない。三十秒もあれば壁面についた。石積みの堅牢な壁である。
「……はあ。やるか」
「掘った土砂を外に運ぶのは私がやってあげるから」
「ありがとう」
俺は壁に手をついて、マスターとしての力を行使した。壁は溶けるように消え、向こう側の土が露呈する。溜息と共に呪文を吐いた。
「土魔法、下級。持続」
とことん地味な作業が始まった。
ダンジョンを広げる方法は二つある。
簡単なのはダンジョンの魔力を消費して広げる方法。早くて楽だ。何せイメージするだけで自由自在なのだから。ただしバカみたいなコストがかかる。試していないから断言はできないが、工事計画の半分辺りで魔力切れするだろう。
もう一つは今俺がやっているように、とにかく地道に掘ることだ。まず、土を掘る。次に崩落しないよう、壁面を石積みに変える。土魔法を使えばこれは容易い。その上でダンジョンの範囲として拡張し、掘り出した土を外に運べば完成だ。この場合かかるコストはダンジョンの範囲拡張分だけで済む。なお労働者の体力は考えないものとする。
俺は今すぐにでも椅子に戻って魔力を派手に行使したかった。
賽の河原で石を積むのとダンジョンの壁に石を積むのは似ていた。何せ実際は掘りながら壁を作りダンジョン指定を行っているから、土魔法の二重起動、別々の場所で、別の行為を行い、その上で適宜ダンジョンマスターとしても魔法を行使している計算になる。頭が爆発しそうだったが、気を抜く訳にもいかない。事故ったら生き埋めになってしまう。
まあ埋まったところで死にはしないが、洗濯するシアンに怒られるのは間違いない。自分が壁を採掘する魔道具か何かになったという幻覚を抱き始めたところで、背後のシアンから声が掛かった。
「じゃ、そこでやめて。次、右に掘って。真っ直ぐ」
振り返ると、シアンは空中に薄青い線を引いていた。何か測っているらしい。というか、あれは建築計画のようだ。部屋ごとの入り口とか、長さとか、そういうものを全部引いてくれていた。俺には終わりが見えないが、彼女には見えているようだ。それが堪らなくありがたくて、ついつい彼女を見過ぎてしまう。
シアンはちょっと照れたように頬を染めた。
「何見てんのよ、ほら。いったいった」
終わりはあるのだ。現場監督の激励を胸に、魔力が尽きるまで俺は壁を掘り続けた。