第二話
目が覚めると木屑が転がっていた。シアンが蹴り壊した机である。そして悲しいことに今まで受け取ってきたこのダンジョンの維持予算など皆無である。食費から何から全部俺の財布から出ていて、できれば机など買いたくない。しかもいつの日か予算が入ってくるという虚しい希望すら、魔王政府ごとなくなってしまった。よって捨てた場合、新しい机を用立てられない。何より、この机はダンジョンの備品である。ならばやることは簡単、直すのだ。
椅子の肘掛けに手を置いた時、ドアが開く音がした。シアンは何かを言いたげな顔をしていたが、破壊された机を見ると気まずそうな調子に変わった。
「どう? 直せる?」
「大丈夫。まあちょっと待ってよ」
肘掛けの錆びた金属はこのダンジョンの中核部分と繋がっていて、管理者はこの椅子からダンジョン全体を管理できる。そこには備品も含まれていた。ゆっくり目を閉じると、何か目薬が浸透していくような感覚を覚える。再び目を開くと、ダンジョン全体を何となく知覚していた。何度やっても慣れない感覚である。
その感覚を維持したまま、足の折れた机に意識を集中する。次いで元の状態をイメージし、魔力を操作していった。
すると、傾いていた机はゆっくりと持ち上がり、折れた足は吸い寄せられるように断面へ結びつく。まるで時間を巻き戻したかのように、一分もしないうち机は元の姿を取り戻した。また一蹴りで倒壊しそうな状態に。
「……何回見てもキモいわね」
「仕方ない。時間を巻き戻すのが一番イメージしやすいんだ」
「わかってるわよ。それより魔力はいくら使った? さすがに私が補填するわよ」
「百かな」
「うえぇそんなに? 下手なんじゃないの」
ぶつぶつと悪態を付きながら、シアンは大きく伸びをした。慎ましい胸が強調されて、何だか哀れなので目を閉じた。
ダンジョンマスターが使える魔力を補填する方法はいくつかある。一つは今のシアンがやったように、ダンジョンの構成員が魔力を納めることだ。我々はこれを納税と呼んでいる。国に納める納税と同じ意味だが、言葉の混同が起こることはない。なぜなら魔王軍に俺たちは税金など納めていないからだ。代わりに予算も降ってこなかったが、納税していたところで予算が出たかは疑問である。
シアンは魔力を納めると、へなへなとその場に座り込んだ。彼女の魔力総量は三百程度なので、一気に体力の三割を持っていかれたに等しい。椅子を譲ると、彼女は座り込んでぽかんと口を開けた。覇気のない様子である。
「で、どうするの」
「どうとは」
「盗賊には負けないくらいにするんでしょ。このダンジョン、ただの穴じゃない」
酷評だが正確だ。地上ゼロ階、地下二階建ての我が城塞は一本道で、何の罠もない。一階から二階へ続く階段を降りると三つに道が分かれ、さながらフォークのようになっていた。要するに右側が倉庫、正面が執務室兼俺の部屋、左隣にはシアンの部屋がある。全フロアは石造りで、崩落の心配こそないが防犯上の心配は尽きなかった。
もっとも建物も看板もない野ざらしの穴なので、誰一人入ってくることはなかったが。
シアンは眉間にしわを寄せた。
「ダンマスって罠とか魔物とか召喚できるんでしょ。やらないの?」
「そんな魔力ないよ」
俺も毎日一定量は納税しているのだが、万一侵入者があった時を思うと、全部は注ぎ込めない。預けることはできても引き出せはしないのだ。シアンも納税してくれるが、根本的に彼女の魔力量は少ない。焼け石に水だった。
解決法はただ一つである。シアンも同じことを思っていたようで、天を仰いだ。視線の先にあるのは霹靂ではなく湿った石天井である。気が滅入った。
「誰か連れてくるしかないわね。ジャック、心当たりは?」
「元部下なら。でも連れてくるのは不憫に過ぎる」
「……私は良いのかしら」
「身内みたいなものだからね」
シアンは顔を赤らめた。明らかに誤解を招いた気がするが、訂正したら蹴られそうなので黙っておいた。俺の言う身内とは、姪っ子的な感覚である。気を紛らわせるように呟いた。
「というか、大遠征があっただろう。その上魔王の戦死じゃあ。連絡がつくか、というか生きてるかどうかも怪しいよ。無事だと良いんだけどね」
魔王は軍団を率いて人界奥深くへ侵攻した。これが大遠征である。何分中央から遠ざけられて久しいため、それ以上の情報はわからない。ただ遠征は途中までうまくいっていたようだが、魔王が討たれたということは失敗したのだろう。元部下たちが魔界に帰れたのかもわからない。今は無事を祈るしかなかった。
これだから戦争は嫌いだ。俺の表情の陰りを見てか、シアンは言い聞かせるような口調を作った。
「ジャック、あんな奴ら心配しなくていいのよ。悪知恵だけは一丁前なんだから、どうせ上手いこと逃げたに決まってるわ」
元とはいえ仲間になんてことを言う、とは思えなかった。シアンの瞳は僅かに潤んでいた。
「そうだね。まあ、彼らは頭が良いから大丈夫だろう」
その言葉は、自分でも少し空虚に思えた。
彼らの趨勢はどうにもならない。今は自分たちの問題だ。下手をせずとも物流が崩壊すれば、俺たちは飢えて死ぬことになるだろう。何もかも田舎なのが悪いのだ。
「シアン、食料の残量は?」
「今日買ってきたから二か月は持つわよ。買い出しに行って例のニュース聞いたんだから」
「あ、そっか」
このダンジョンは街道どころか最寄りの村落まで数時間かかるので、食料は数か月おきに買い込んで冷凍しているのだ。シアンが知らせを聞く機会など、そのタイミングしかない。
ダンジョン自体の魔力残量は五万。月収は平時で一万少し、これで何ができるかといえば、何もできない。手っ取り早い防衛戦力の拡充は魔物を召喚することだが、維持にも魔力が掛かる為避けたい。というか下手な魔物を出すくらいなら俺が戦った方が良い。罠は論外である。まず置く場所がないし、五万で置ける罠などたかが知れている。やっぱり俺が戦った方が早い。
そこで、俺は気づいた。
「シアン。困った、俺たちにできることはない」
「魔物は? 罠は?」
「出せても弱いし維持費が払えない」
シアンは閉口した。苦虫を何十匹も噛み潰した後、吐き捨てるように言った。
「積んでるわね」
「うん。一旦別のことを考えようか、村はどうだった?」
「私たちの分の食糧を工面するのも大変そうだったわよ。まあこっちに売るのが一番実入りも良いから、むしろ感謝されてたけど」
そこで、シアンは言葉を区切った。何かを考えているような表情を浮かべていた。
「どうした?」
「いや、村の方に人とかを出させればって思ったけど。やっぱ無理、忘れて」
「どのみち頼む気もないけど、そんなに酷いのか」
「明日見てきたらどう? どのみちここに居てもやることはないみたいだし」
つまらなそうにシアンは頬を膨らませ、部屋に帰っていった。
「村、か」
存亡の危機とまではいかずとも、状況が悪化しているのは間違いないらしい。どのみち出せる物など顔くらいしかない。申し訳ないので見に行くとしよう。
俺はベッドに向かった。明日は長い一日になるだろう。




